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おやすみプンプン(メモ)

ノスタルジーや子供の頃の約束、ボーイミーツガール、成長、セックスや相互依存などがテーマであるように感じた。
最終話では(子供の頃の名前も覚えていないけど妙に印象的だった友達が、どこか面影を残しつつも違う時間を過ごしたから遠い人になってしまったね…)みたいな雰囲気を出していた。子供や学校時代は祝福すべきものとして描かれていた。
また、主人公である二人は家族に欠陥があって、正しく成長できなかったのが負い目だったようだ。
(子供の頃、何気なく深い考えなしに結んだ約束を、やはり深い考えなしに一度裏切って。それにちゃんとケリをつけないで。お互い引き伸ばして曖昧。道を違え、もう相手にも忘れられてしまってもいいと想いながらも引きずっていた未練が、一方通行ではなかったことを知ってしまう。諦めて物分りの良いふりをしてやり過ごしていた生活が決定的に崩れる。相互依存の逃避行。しかし最後に一方が、共有していると思いこんでいた罪を引き受けて自殺)そして、今の彼を受け入れてくれた新しい居場所に彼は帰る。


プンプンとその血縁者達は、記号化された姿で描かれる。この表現によって、プンプンは視点人物・読者から注目すべき人物であると信じられる。彼らは顔・表情を性格に把握することはできないが、その分感情へのフォーカスが強くなる(プンプン本人はその内面を表現されているように、血縁者たちは家族であるために十分な客観性のもとで把握することができない、かのような(プンプンがいない場面でも血縁者たちは記号的姿で表現される))
また、プンプンのセリフは他のキャラクターのようには描かれず、モノローグのような吹き出し等で表現される。これは、プンプンが若干離人症めいたかのような効果(プンプンが熱中して話したときほどモノローグの精密性は失われる。薄い考えのもとで言葉を並べていることの表現かも)


また、後半に登場する重要人物に、漫画を書く者がいる。彼女はスランプ気味になり、漫画から逃避していたが、プンプンと交流することで再度漫画をやるようになった(プンプンはそのきっかけになったが、走り出してしまえば補助は最早不要だった)


愛子はプンプン以外とすれ違うような交流の中で、向こうで勝手に盛り上がっている相手を冷めて観察するような気分になる描写があった。…恵まれた家庭環境の人間を蔑み、そういう人達には共感されない苦しみを自分は抱えていると思おうとしているフシがあった。

プンプンは中学まで学業良好、愛子は読者モデルをやれる程度の外観を持っていることが示唆されている。
プンプンは叔父の婚約者に強姦されて、性を嫌悪するようになった。彼の顔も良かったようだ。叔父にもまた、性の絡んだ苦い失敗の経験を持っていたが、婚約したり、プンプンへ世界で足掻くことを示唆しようとした。
〜〜(ここから、もっと断片的メモ書き)

俺の母親は親が転勤族でギデオンみたいな活動もやってて
父親は2代続けて地元のデカい工場に行ってる

俺は童貞で、性交したこともないけど、世の正常なカップルはピロトークでこれまでの人生の身の上話を全部ぶちまけ合うものなの?(なんとなくだけどこの漫画を教科書に人間関係を構築してるといつかトチる気がする)

人間関係ってその場に足りないパズルのピースみたいな面して適度に回すのが一番やり過ごしやすいけどプライベートまでそうやって回していると誰にも心を許せなくて辛いですよね みたいな漫画

個人のスペックでは世の2/3の上澄みくらいのところに来られてもどうしても産まれとか育ちとか過去の思い出がお前を引きずりおろす みたいな漫画

差異化ゲームに巻き込まれたお前の体を運命の恋人が傷つけ毀損しやがて社会に回帰する そういう漫画

若い頃と言うか、サブカル大学生がこういうのをすきな感性を否定したいわけではないけどサブカル大学生にしかウケないし不健康な感性じゃんといえば やはりそうでしかないのだろうか

腫れ物を扱うようにしてコミュニーケーションすることは、相手への敬意ではない

こういうサブカル破滅恋愛テーマの創作、現ツイッター・インターネットでは最新の成功者がにゃるら先生になっているところにも触れづらさが存在している気がする。
岩倉さんの短歌も上手いですしね。

ありのままの自分幻想/ありのままの自分を受け入れてくれる/さらけ出せる相手が運命の恋人であるという幻想/自分は(その気でやれば)相手に求められているような言葉を気を回して吐くような関係くらいは簡単に回せる幻想/人気商売・営業努力は簡単そうだ幻想/自分の気持ちを切り分けて制御できるという幻想/自分一人が/自分と自分の目の前にいる運命の恋人だけがプラトニックを求めているという幻想/大人は穢れていて、そうなる前の子供時代の自分たちは無垢で無邪気だったという幻想

アイドルとかtuberへのファン心理が恋愛感情や期待と綯い交ぜになっている/なっているかもしれないのと、そういうのと二次オタが分離していた時代があったが、今やそうではないし、社会不適合者ともノットイーコールであること。

そもそも自分は意味のないことや無意義なことを喋るような必要性が分からなくて、自分は大したことを喋れないから黙っていようと思って、それで自閉を酷くしていったんですけど、だから一層、自分が有意義なことを喋るには面白小説でも書かないといけないような強迫観念があって、でもそんなに対して気張ったことを書こうとしないでも自分と会話してくれる人っているんですねとか、あんまりおそれおそれ会話していると却って伝わらなくなる破滅の経験を通して、気張りすぎず傍若無人すぎずというラインを探している途中。

『話が極端で露悪過ぎる』とか『最終的に前向きで良かった』とかには(人が二人死んでんねやぞ…)となる気持ちは、少し有る(『フツー』『中流』よりはたしかに結構だいぶ下の方かもしれないが、それでも最下層かと言うとそうではないだろうし、カルトは普通に社会に存在していて、あからさまに取り上げるのも確かに悪趣味かもしれないが、不可視化や透明化を安易にして良いような外部や周辺ではないでしょう、自分もヤクザやヤンキーに対して、そういうエキゾチズムを持ちがちではあるかもしれないけれど)

715、追記
『創作者とミューズ』形式の構図も埋め込まれていますよね、創作者が主人公でミューズがヒロインという構図が多いのだが、プンプンでは創作者が幸でプンプンがミューズなので逆になっている。また、幸は才能に溢れ全てを勝ち取ったり整形し続けて持っていないものを手に入れようとし、またそうすることができ続けた強者であり天才として描かれる。対してプンプンは思い付きを殴り書いたのがたまたま幸のツボに入ったり、力強くやれよと押し出したり、顔の良さを幸に気に入られたりと、自然体のような、力まないで取り繕わないでやった行動がラッキーに嵌って良い作用が巡るという結果になっており、都合の良い物語だなあ、という感じがする。


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