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新刊海外SFと、私たちがそれを語る言葉を持たない話


 2019年12月刊のSF小説2作をレビューする。(文:橋本輝幸)

チョン・ソヨン『となりのヨンヒさん』(吉川凪・訳、集英社)

マーサ・ウェルズ『マーダーボット・ダイアリー』(上下巻、中原尚哉・訳、創元SF文庫)


チョン・ソヨン『となりのヨンヒさん』(吉川凪・訳、集英社)


 韓国の作家のSF短編集。巻頭の掌篇「デザート」を読んで、まず面食らうかもしれない。語り手の友人Kは、次々変わる彼氏をデザートの名称で呼んでいる。最初はあだ名かとも思うが、どうやらKの世界理解は彼氏に限らず、甘味や食を中心に形成されているようでーー? 比喩表現と解釈すべきなのか、あるいは不条理小説なのか、認知にまつわるSFか。本作の解釈はもちろん各読者にゆだねられるだろう。試金石的な一篇である。ともあれ、結末で語り手が変容し、Kと同じ視野を共有できるところに希望がある。表題作「となりのヨンヒさん」でも似た感覚が味わえる。主人公である芸術家スジョンは、都心の素敵なビルにアトリエ兼住居として一部屋を借りる。異様に家賃が安い理由は、隣に異星人が軟禁されているからだった。変わったお隣さんと交流するうちに、主人公は異星人の仮名がヨンヒ、一昔前に一般的だった韓国の女性名だと知る。


「ところで、女性だったんですか?」

「構いません。違います。似たようなものです」


 見た目からして人類とはまったく違った生き物で、ここまで地の文で〈彼〉と呼称されていた異星人が、ここで主人公の女性にとって違う存在から共通する存在(女性)に変わるのだ。異星人の本名や最後の行為は、スジョンには解釈しきれない。しかし理解しようと耳を傾け、目をこらしている。「デザート」の展開の反復である。

 さて、人間にそっくりな長命な異星人が実は昔から地球に潜伏しているという設定の「養子縁組」が覚悟していたような悲劇に終わらなかったとき、私はこの短篇集がとても優しい感触であると気づいた。ただし一方で『となりのヨンヒさん』収録作には重い話、鬱屈や抑圧を描いた話も少なくない。
 とりわけ、本書における宇宙は冷たく厳しい世界である。宇宙に出ていけるのは優れた人や幸運な人だけだ。過酷だが一部の人間を魅了してやまないという宇宙観は、宇宙へ行くのを夢見た女性が事故によって大きく迂回しながらも目標へ至る「宇宙流」で明らかになり、第二部《カドゥケウスの物語》でさらに強調される。
 第二部の舞台はカドゥケウス社という巨大企業が超高速航行法を独占している、惑星植民が進んだ未来だ。どうやら超高速航行中は時間の経過がゆるやかになるらしく、ゆえに宇宙を旅する者たちは、定住している家族や知人とは加齢のペースが異なってしまう。(いわゆるウラシマ効果だ) この孤独は「再会」「一度の飛行」「秋風」で繰り返し言及されている。また「引っ越し」「再会」「一度の飛行」はどれも宇宙航行への夢を諦める話の変奏だった。
 さて、本書の最後の一篇「秋風」の語り手は、かつての恋人が別の人と結婚して住んでいる星に会社の後輩と共に監査に入る。ロマンス要素があり、異常の原因と動機を探る謎解きものであり、お仕事小説に近い。そんな本作に関し、ひとつ逸話がある。著者であるチョン・ソヨンさんは、インタビューを受けた際に「秋風」は一人称でジェンダーニュートラル(性別不確定)に書いている(ため、語り手はいずれでもあり得る)が、日本語に訳した場合、これが原語と同様の効果を発揮するかわからないと語っている。(※リンク先はスペイン語) 残念ながらその懸念は当たっており、翻訳の地の文部分はジェンダーニュートラルだが、後輩との会話部分の語尾には女性の役割語が使われている。つまり「秋風」で後輩社員(男)とロマンスしている語り手は、原文では女性とは限らないらしい
 結果がひとつに収束しない、あるいはどこかに他の可能性があるかもしれないというのは、本書の随所で見られる特徴でもある。(論拠1. 明確にレズビアンが描かれた短篇もあるが、女性二人の関係性が友情とも愛情ともつかない短篇もある。2. 並行世界ものが複数作、収録されている) もう読んだ方も、それを念頭に置いてぜひ再読してみてほしい。

 後書きに書かれているような、各話の着想元である隣国の歴史や事情に思いを馳せるのももちろん実りある読書だとは思うが、書かれていることをそのまま味わってみるのも良いのではないか。本書は、違うもの・未知のものではなく、なじみのあるSF・普遍的な小説として読める本である。
 追記:マイベストはポストヒューマン変身物語「跳躍」かもしれない。変身譚も人間性とおさらばする話も好きなので。


マーサ・ウェルズ『マーダーボット・ダイアリー』(上下巻、中原尚哉・訳、創元SF文庫)


 本書は、警備ユニットーー有機体部分とメカ部分が混合した人型アンドロイドの一人称で語られる。人称代名詞は〈弊機〉だ。原文では普通にIだったので、日本語版のあらすじを見て、この代名詞の発明には大いに驚かされた。性別を廃し、仕える人間からは一歩へりくだった非人間的な代名詞で、語り手にぴったりである。
 主人公は名がなく、性器や食事・排泄の必要もない。人権や自律性もない。警備ユニットは機体の90パーセントが再生ないし交換可能なので、損傷前提で突撃するのが基本戦法だ。一般的な人間とは大きく異なる存在である。
 人と関わることを恐れ、一般的な人間のように扱われることを拒み、密かにドラマシリーズの鑑賞を趣味にする戦闘マシーンの内心のつぶやき。それが本書だ。物語はバトル、アクション、敵の動機などの謎解き、ときにスパイスリラー的な潜入や化かし合いで構成されている。上下の各巻に2話ずつ全4話が収録されているので読みやすい。本筋のかたわらで〈弊機〉が人間や、船の人工知能や他のロボットのような他の人造知性たちといった他者と関わり、経験を重ねていく。
 『マーダーボット・ダイアリー』はアクションスリラーとキャラクターのドラマの両輪を兼ね備えていて、広くおすすめできるエンターテイメントSFだ。こういう白兵戦やサイバー戦が主体のSFって最近あまり話題になっていたおぼえがない。その上であえて、こんな人にもおすすめしたいということをいうならば、国産ライトノベルSF(冲方丁の《シュピーゲル》もの、秋山瑞人作品、長谷敏司の『BEATLESS』など)が好きな読者なら、本書のアクションや陰謀やユーモラスな掛け合い、拡張された人間性なども気に入るのではないかと思っている。
 登場キャラクターの中では、私は第2話に出てくる調査船(ART:Asshole Research Tranportと弊機が勝手に呼んでいる。一人称は「本船」)が好きだ。強大な人工知能で、驚きのアイディアで時に〈弊機〉を振り回してくる。なお繰り返すが、英語版での〈本船〉の一人称はIであり、日本語版では会話の区別のためか女性的な役割語の語尾を与えられているが、原文を読む限り性別はさだかでないように見える。皆さん、ARTはオスの船や中性の船と想定して読んでもいいんですよ!
 下巻に収録された渡邊利道氏の解説では、〈弊機〉に性別がないことが明記された上で「彼女」という三人称が使用されていて、これは私には解せなかった。さらに〈弊機〉は性別どころか人種もさだかではなく、英語版やドイツ語版の表紙では不透明なフェースプレートで顔が覆われていることをつけくわえておきたい。
 個人的にはやはり、本作のキャラクターの2010年代以降らしい特色は、ボット(人工知性)たちに性別や人種を好きに代入できる自由さではないかと思っている。そういった特徴のある作品は、本作や、登場人物すべての三人称が「彼女」になっている『叛逆航路』の《ラドチ戦史》シリーズだけではない。ここで私がなにを言いたいかというと、性役割や性別や外見描写が小説に本当に必要なものか、という疑問を提示したいのだ。(特に、一次創作者の意図から離れかねない場合は)

 今回紹介した2作品に奇しくも共通するのは、日本語に翻訳されたときになぜか女性性が添加された部分があった点である。ローカライズされるにあたって、なぜそうなったのだろうか。(追記:良かれと思ったからだと推測しますが、なぜそれが良い選択だと判断されるかということに関心があります)
 昨年後半、辞書出版社メリアム・ウェブスターが、単数形の三人称theyを「今年の言葉」に選び、話題になったのは記憶に新しい。他言語の元来の特性(性役割の強弱)や、あるいは時代を反映した変化を、日本語ははたしてどう受けとめるのか。これを考えるべき時期が、すでに到来している。

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