見出し画像

余韻

毎朝自転車置き場で いってらっしゃい って言ってくれるおじさんとか、
パスモで払うことを覚えてくれてる最寄駅のコンビニの店員さんとか

そういう、
心にふわっと残る人。

笑顔がすてき、とか、声が元気、とか
心に残る理由はそれぞれあるんだけど

なんとなく心に残るものをくれる人が毎日にいる っていう状況って、きっとみんなにあって
この世界にあるたくさんの瞬間の中で、結構、ほんとはとっても大切なことなんじゃないかなあ、とふと思った。


小さい頃通っていたピアノ教室の駐車場の出口には
当時有人の精算所がいくつかあって、
その中の1つに猿みたいに顔が赤くて皺くちゃのひょろひょろしたおじちゃんがいた。

母の車の後部座席の窓から首を出すと、頭を撫でてくれる。

そのおじちゃんは、
毎週火曜と金曜のわたしのピアノの時間を覚えてくれて、おやつやプレゼントを用意して待っていてくれるようになった。

うちの車が近づくのがわかると、
こっちだよ、って手を振って合図してくれた。

稀に、おじちゃんのいる精算所に他の車がいて、やむなくとなりの精算所に行かざるをえないこともあって、
そんなときは、きっと待ってくれてただろうにおじちゃんごめんね、って思ってえんえん泣いたし、
泣きながらとなりの精算所からおじちゃんを見てると、おじちゃんが力無く微笑んで寂しそうに手を振ってくれるから、余計に悲しくって寂しくって号泣したりもした。

中学校にあがると同時にわたしはピアノを辞めて、
最後の教室の日には、今日が最後なんだって、お別れのおかしを渡した。
その時どれだけ泣いたかどうかは覚えてないんだけど、角を曲がっておじちゃんが見えなくなる最後の最後まで遠ざかる精算所を見つめていた記憶は思い出せる。

そんなおじちゃんのことは、いつもはほとんど思い出さない。
でも、時々、ほんの時々、突然ブワッと思い出して、懐かしくてたまらなくなる。
こうやって書いているだけで目頭が熱くなるくらい。

誰かとの小さくてあたたかい日常の1コマって、
人の優しさの原風景になるんだなー。

名前だって知らなかったし、
あのおじちゃんが今どこでなにをしているのかなんて、まったくわからない。

元気でいてほしいなあ、とは思うし、
幸せであってほしいなあ、とも思う。

でもどんなに懐かしがっても、絶対にもう二度と会えない。

こういう名もない関係って、本当は最後がわからないことのほうが多くて
大体は、終わりが経って随分してからふと、
あれ?あのおじちゃん最近会ってないな、ってなったする。

あれが最後だったな、
って気づいた時には
小さかった名もない関係が、ギュッと濃密な雫になって、ポトっと心のどこかに垂れて、

垂れた雫は、もしかしたら心を浮遊するかもしれないし、じんわり浸透するかもしれなくって、どっちにしても、心の温度が0.5℃くらいあがったりする。

こういう、心の温度があがるコミュニケーション
ってすごく好きだな。
等身大で、嘘がなくて。

名もない関係じゃなくても、
誰かの心を一瞬だけ上気させられるようなひとでありたいなあ、とかおもう。

記憶にずっと残る、とかでなくていいから
投げた言葉や気持ちがちょこっとだけだれかのHPをあげるような。

そう思うと、どんな満員電車でも優しい気持ちでいられるから、自分もなかなか単純だなあとかおもったりもする。

秋の金木犀の香りや、
お風呂の水面を指で弾いたときに
まあるく広がっていく波のように

ふわっとなにかの誰かの余韻に残るって
切なくて寂しいけど、ちょこっとだけ世界の温度を上げることができるのかな。


自然体で、人と世界に優しくありたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?