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山塚りきまるの『なんかメロウなやつ聴きたい』第六十回 GEZAN『狂(KLUE)』に寄せて


まずはじめに断わっておくが、これから書くのは僕の記憶に基づく歴史だ。つまり、偽史だ(偽史でない歴史書は存在しうるか? という命題はひとまず置いておく)。

だから間違っていたとしても、どうか指摘しないでほしい。このことに関して、僕はたとえ間違っていたとしても、間違え続けていたいからだ。


僕は十年前、彼らのライヴを見たことがある。それは神戸のライヴ・サーキット・イヴェントで、当時僕がやっていたバンドがお呼ばれしたのだ。

彼らのライヴは凄まじかった。うつくしく繊細なサイケデリアを構築したかと思うと、轟音のハードコアで全てをめちゃめちゃにしてしまった。さっきまでギターを優しく爪弾き語りかけるように歌っていたヴォーカルは、ギターを放り投げるとマイクを引っ掴んでずっと叫び散らしていた。そして、耳をつんざくノイズの中、観客の渦へと突っ込んだ。それはダイヴなどという生易しいものではなかった。ナナメ下四十五度に、鋭角に、文字通り、突っ込んだのだ。猛スピードで射出されたそれを観客が受け止められるはずもなく、彼はライヴハウスの床にしたたか頭を打ち付けた。そして倒れたまましばらく動かなかった。それでも演奏は続いた。全てを薙ぎ倒すように。そのライヴが結局どういう風に終わったか覚えていない。終演後、楽屋で彼を見かけたとき、僕は声をかけなかった。単純に怖かったのだ。彼はポツンとソファに座ったまま、塗りつぶされたような真っ黒な瞳で虚空を見ていた。

次に彼らを観たのは五年後だ。もはや伝説となりつつある全感覚祭の第一回目だった。ヴォーカルの彼がソロでヒップホップをやっているという噂を聞いていた。その先入観のせいかもしれないが、そのときの彼らはブラック・ミュージックの要素が強かったような気がする。ポップ・グループの2ndのような混沌のファンクに乗せて、彼は叫びとも語りともラップともつかぬ歌をうたっていたはずだ——たぶん。

そして次に観たのは二年後だ。たぶん夏の終わりの札幌だ。ここでまた彼らは大きく音楽性を変えていた。鋭利で情熱的なパンク・ロックをやっていたと思う。そんな中で演奏された『海』という曲はとても印象的だった。ツアー中に書き、今夜が初披露だというその楽曲は、きれいなメロディとはかなげな歌詞を持つ、涙ぐむような音楽だった。『ざばーん』と彼は何度も繰り返していた。寄せては返す波のように、何度も、何度も。波も涙も暖かかった。

そして、一昨日のことである。

僕は顔馴染みのレコード屋ですさまじい音楽を聴いてしまった。1曲目のイントロから13曲目のアウトロまでしっかり全部聴いてしまった。最初は『やっべーな!』とか『これオートチューン使ってるんスかね?』などと軽口を叩いていたが、やがて声は言葉をやめ、『……うわぁ……』という呻きを漏らすばかりになり、しまいには口も利けなくなって、棒立ちのまんま音に打ちのめされていた。

音に打ちのめされて傷つくものはいない。とはボブ・マーリーの言葉だが、僕は確実に打ちのめされ、そして傷ついていた。否、傷つくように感動していた。傷つくことと感動することは紙一重である。そんな瀬戸際の感情が巻き起こり、僕は店長のまえで危うく落涙しかけた。

その音楽は一言でいうなら『リアル』だった。ここで言う『リアル』とは、『現代の現実』という意味だ。あらゆる表現が持つ社会的側面として『リアルを描く』というものがある。防人歌も、蟹工船も、ギャングスタ・ラップも『リアル』を克明に活写することに重きを置いた表現だ。

ここで、『リアル=現代の現実』に対する僕の考えをもう少し述べてみたいと思う。

まず僕は『リアルだから素晴らしい』とか『アンリアルだから退屈』というような安易なジャッジはしない。それは単なる一つの側面にすぎない。彼らのアルバムは『リアル』である上に音楽的にものすごく素晴らしいのだ。だから僕は感動したし、感動のあまり、こんな文章を綴っている。

『反体制だからクール』とか『体制側だからダサい』という価値基準も僕は持たない。パースナリティやアティチュードではなく、あくまで作品そのものの評価における価値基準。として限定するが、体制か反体制かで評価するというのはきわめて安直かつ危険なジャッジだと思っている。たとえば40年代のベニー・グッドマンはバリバリ超体制側の国策音楽といえるが、彼のスウィング・ジャズを『ダサい』と一蹴するリスナーはそう多くはないだろう。旧ソ連の国策映画『ヨーロッパの解放』を『駄作』だと一体誰が言い切れるだろうか?

少なくとも、あらゆる芸術に対する僕の態度というのはそういうものだ。『冷笑家』とか『冷静ぶってるだけのクソ』とか批判は山ほどあるだろうが、僕が考える誠実な態度というのはこういうものなのである。

さて、これは僕がいま考えた例であり、こうしたグループが本当に存在するのか知らないし、仮に存在していたとしてもそれらを貶すものでは決してないのだが、たとえばテクノ・ポップに乗って、アイドルのような格好をした女の子が髪を振り乱しながら自身がいま服用している向精神薬や睡眠薬、元カレの名前などを連呼するような音楽を、僕はリアルとは査定しない。

それは確かに現代的ではあるしひとつの現実なのだろうが、僕が思う『リアル』とは異なる。リアルとは単なる現状報告ではなく、社会と私(誰か)との関係性を描き出すものだ。


もしくは自分の住む街を愛で、友達や恋人と笑い合い、ノスタルジーやセンチメンタルを交えつつもマイペースなライフスタイルを愉しむというような音楽(古くははちみつぱいやはっぴいえんど、80年代のシティ・ポップ、『LIFE』の頃の小沢健二や真心ブラザーズや奥田民生などが例として挙げられる。言うまでもなく彼らはとても素晴らしい)も、僕はリアルだとは考えない。リアルとはギリギリの切迫感が伴うものでなくてはならない。

『歌いたくはないが、歌うしかなかった/歌ってやるんだ』という迷いを孕んだ強い決意、この矛盾、このアンビヴァレンスがあってこそ、強度を持った『リアル』が生まれるのだと思っている。一部のブルーズや、一部のパンク・ロックや、一部のソウル・ミュージックや、一部のギャングスタ・ラップなどに僕は強い『リアル』を感じる。

しかしながら『リアル』は経年によって解像度を落とす。防人歌はかつて我が国で間違いなく存在していた『リアル』だが、そこから香る生々しさは極めて薄い。もうそれが『現代』ではないからだ。だから、芸術家はリアルを描くことに慎重になる。流行が移り、世相が変われば、切迫さが薄れてしまうからである。何より『リアル』を描くことで作る敵の数は味方よりずっと多い。ちなみに防人歌において体制批判を歌ったものは全体のわずか3パーセントに過ぎない。主君に対する忠義を歌ったものとほぼ同じ割合である。リアルはどっちだ。

時代は変る。

ロックがレベル・ミュージックだったのは過去の話だ。今やロックは己の内的観察を描く新ロマン主義的なものになった。長年『リアル』を描いてきたヒップホップも、少しずつ、だが確実に、その使命を手離そうとしている。だがしかし、このロック・バンドはそれを恐れずにやったのだ。『いいね』も『iPhone』も『安倍』も『トランプ』も歌った。それも多重録音とダブ処理が施された最新鋭のトライバル・ビートと、重く暗い和音の中で。しかもBPMは一定で、全ての楽曲はシームレスに繋がってゆく。誰もが知る通り、一定のビートが続くと人間はトランスする。トランスした状態でどう踊るかはそれぞれの自我に依る。フィリップ・グラスの公演ではタップ・ダンスを踊る黒人と、階段に腰掛けて頭を振る白人がいたそうだ。

余談だが、トライバルは今後のヒップホップの一つの潮流になっていくと僕は思っている。南米では凄まじいパーカッション・アンサンブルとラップだけのトライバル・ビートの人力ヒップホップが生まれ始めている。僕はここに、純血という幻想と混血文化の戦いの激化を予感している。

話を戻そう。不穏で凶暴で切実な楽曲が立て続けに流れたのち、まるでゴスペル・ソウルのような『Soul Material』を差し挟んで、アルバムは後半戦に入る。ふたたび内臓が軋むような凄まじいビートが始まる。研ぎ澄まされた言葉は一字一句無駄なく、正確に抉り込んでくる。哀しげなドラ猫のようなヴォーカルは凄まじい反射神経でもって、僕の目の前まで距離を詰めてくる。目をそらさずに『リアル』を歌い続ける。我々の現状を。我々の社会を。『私』と『あなた』と『誰か』を。

フィールド・レコーディングによる幸福なひとときを描いたインタールード『Playground』を経て、いよいよアルバムは最後の曲『I』となる。筆舌に尽くしがたい美しさを持つこの楽曲で、彼らは骨身を曝け出す。“綺麗な言葉はやめた”という。誰もが知るところだと思うが、ヴォーカリストの彼は超一級の文筆家である。僕も一応物書きの端くれであるので、彼の才能がどれほどのものかというのはある程度は理解しているつもりだ。彼ははっきり言って大変な天才である。滑らかな文体と卓越したリズム感を持つ彼ならば、誰もがうっとりするような美しい詩などきっと簡単に書けてしまうだろう。でも彼ははっきりとそれを拒んだのだ。

彼の文章の特徴に、思考と状況描写のバランス感覚の絶妙さがあると僕は思っている。つまり、いま考えていること、いま起きていることをしっかり両方見つめているのだ。この彼の最大の特徴が、このアルバムにしっかりと反映されている。言葉の力と、音楽の力が等しく機能しているのだ。どちらかが牽引しているというのではない。詞と音が絡み合い、瞬間ごとに爆発を起こしている。詞とはすなわち思考であり、音は状況だ。このアルバムが放つ生々しさは、彼のバランス感覚無しでは有り得なかったろう。非常に音楽的な音楽だ。

そして誰よりも怒り、悲しみ、悩んでいるはずの彼は、笑って生きることこそが反抗である、と述べるのだ。今までの『リアル』は怒りや嘆きや問題提起だった。だがこのバンドはそれだけでなく確かな希望を書き添えた。『そんな簡単な問題じゃない』とか『青臭い』と言う大人は山ほど出るだろう。でも上から目線でも下から目線でもなく、同じ目線でしっかり目を見つめられながら言われた言葉を人は無視できない。彼は一曲目からずっと僕の目を見つめていた。

“政治と言われて思い浮かぶのは愛する人であるべきだし、東京と言われて思い浮かぶのは愛する人とのいつもの帰り道であるべきだ”と彼らは言う。

彼らはこれが恥ずかしい歌であることを自覚しているのだ。大人たちに笑われるであろうことを知っているのだ。だけども、それに屈してこの歌を歌うのをやめてしまったらそのときは命を投げ出すと、彼らはそう言っているのだ。迷いを孕んだ強い決意。

サン・テグジュペリは言った、『彫刻家は過誤に過誤を、矛盾に矛盾を重ねながら、 粘土を通じて、 まっすぐに己の創造へと歩んでゆくだろう。 知性にしても、判断力にしても、創造者ではない。 彫刻家が知識と知性に過ぎないならば、彼の手は天才に欠けるに違いない』と。


たぶん、ソウルフルとはこういうことだ。クリエイティヴとはこういうものだ。

この音楽と向き合えないような人間に僕はなりたくないと思う。


アルバムのタイトル『狂』というのは様々な解釈が可能だ。ご存知の方も多いと思われるが、現在、“狂う”という言葉はあらゆる電波放送や出版物の中で自主規制されている。僕はある媒体で“手元が狂う”と書いた際、校正が入ったことがある。規制されるべきものが税関を難なくパスする一方で、ただの言葉や、ただの想いが『不許可』のハンコを押されて打ち捨てられてゆく。世界は凄まじいスピードでねじれてゆく。

『KLUE』とは“手がかり”や“糸口”という意味だが、これはもちろん『CREW』とのダブルミーニングであると思われる。“狂ったクルー”というのは手垢にまみれたライミングだが、狂い合おうではないか大いに。

このアルバムにヤラれた者は全員クルーじゃないかと僕は思っている、勝手に。


そして現在、僕は危惧していることがある。

五枚目のアルバムにしてこんなものを作り上げちゃってこの後どーするの? という要らぬ心配だ(余計な御世話にも程がある)。
かのスライ・ストーンは『スタンド!』、『暴動』、『フレッシュ』という音楽史に残る革新的名作を連発したのち、友人にこう漏らしたそうだ。


『じゃあ俺はこの後何をしたらいいんだ? 教えてくれよ』。


とんでもない名作を手がけたあとの気分、というのがどんなものか僕は知らないが、彼らがこの次の一手をどう打つか、僕は気になって仕方がない(全くマジで余計な御世話だ)。

このアルバムが不朽の名盤として残って欲しい一方で(というか残るだろう)、歌詞を読んだリスナーが『こんな時代があったんだね。ヤバかったんだねえこんとき』と笑う時代が来て欲しい。という矛盾した想いがある。

2020年は激動の一年になるはずだし、令和が乱世の時代になるであろうことを、我々はなんとなく予感している。


個人の尊重や多様性が叫ばれる中、僕はハッキリと差別発言をしているという自覚を持って言うが、『このアルバムをヤベーと思わないヤツはヤベー』。
GEZANの『狂』、本当に凄まじいアルバム。
2020年1月現在のニッポンでいちばんリアルな音楽。

退廃的で不健全なものが長く栄えた試しはない、ロック・ミュージックは新しい道徳を歌う。


言いたいのはそれだけ!!! 君たちの番だ!!!!






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