見出し画像

「ラ・ポルト・シノワーズ」とドソワ夫人の店

 今日、実に様々な分野でジャポニスムの研究がなされているが、比較的早い時期のジャポニスムに関して、よく名前が出てくるのがドソワ(Desoye/de Soye)夫人(または夫妻)が1860年代の初めに開いたとされる東洋美術を扱う店「ラ・ポルト・シノワーズ」(「支那の門」、「中国の門」)である。

 しかし、この店はドソワ夫人の店ではなく、リヴォリ街に1862年に開かれたわけでもなかった。

 すでに1975年にクリーヴランド美術館で開かれた「ジャポニスム フランス美術への日本の影響 1854‐1910」展におけるGabriel P.Weisbergによるカタログ論文(pp.3-4)でも指摘されているように(さらに同カタログp.16の註25も参照されたい)、ドソワ夫人は「中国の門」のオーナーではなく、1860年代にホイッスラーやマネたちを魅了した時期の「中国の門」のオーナーは、ピエール・ブイエット(Pierre Bouillette)という人だった。この店は、1826年にサロン・デ・テとして開店し、ヴィヴィエヌ街36番地にあり、次第に中国や日本の美術品販売に参入していった。

 一方、ドソワ夫人の店は1862年に開店し、確かにリヴォリ街にあった。が、店の名は「ラ・ポルト・シノワーズ(中国の門)」ではないのである。
 さらにパリにはドセル(Decelle)という人の「ランピール・シノワ(中国帝国)」という名の店もあって、早くも1850年代に日本の品物を扱っていたという。

 当時及び近年に至るまでのジャポニスムに関する諸文献に「ラ・ポルト・シノワーズ」が出てくることは多いが、それはドソワ夫人の店とは違うのだ。

 1975年のクリーヴランド美術館で開かれたジャポニスム展のカタログ論文を読んで、私は初めてそれを知った。が、今日でもネット検索をすると、「中国の門」はドソワ夫人、または夫妻の店と書いてあるものを散見するので、その後の研究展開は知らないままであるが、あえてここに紹介してみた。

追補1
 「日本に滞在していたド・ソワ夫妻なる人(un M.de Soye et sa femme)がリヴォリ街に開いた店」という記述は、L.ベネディットのホイッスラーに関する『ガゼット・デ・ボザール』(1905年、34号)の論文に掲載されている。同じくその論文でベネディットはシェノーによってそれが1862年と確かめられた、と註を付けている。

追補2
 エドモン・ド・ゴンクールは、『愛しい女』の序文で、ドソワ夫人の店とラ・ポルト・シノワーズとを同一視はしていないようだ。ただし、そこに見られる彼らの日本美術や画本発見の年代については、矛盾が指摘されており、あまり信用されていない。
 なお、当時のフランス人が「日本のアルバム」と言っているのは、画帳、絵本、画本などの謂である。

追補3
 ドソワの名は、ドッゾワまたは、ドゥゾワの表記がよいかもしれないが、ここでは、従来からのドソワとした。

追補4
 ドソワ夫人の店の名は何というのだろうか。1975年のクリーヴランド美術館でのカタログ論文でも、それは書かれていなかったように記憶する。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?