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中村彝画室の遺品整理

 中村彝と同郷の弟子、鈴木良三氏によると、大正13年12月27日に彝の画室での告別式が神式で執り行われた。
 突然の死であったが、彝は普段から備えていたのか、「遺書」はあったらしい。  

 そして、翌年、中村彝画室保存会が結成され、「あらゆる物品に印刷したレッテルを附し、番号を記録した。」この「印刷したレッテル」とは、朱文方印型の「中村画室倶楽部所蔵」シールのことだろう。

 オリジナル作品の裏側を額縁から外して観察したり、こじ開けたりするのは、どうしても必要な場合以外は、学芸員といえども、作品を傷つける危険さもあって容易にできず、私は、このシールを研究する機会を逸してしまった。
 
 だが、この(おそらくは印刷された)印章シールには、Aの何番とかCの何番とか、墨などによる手書きの番号が書かれているのは知っている。

 ちなみに、あくまで類推だが、Aというのは油彩画のようで、Cはスケッチや素描の類に多く見られるようである。すると、Bというのは水彩やパステル画の類だろうかとも推測している。

 しかし、このシールは、もちろん作品のみでなく、残された本などにも貼ってある。はっきり読み取れないが、EかFの3となっている本を見たことがある。

 ただ、注意すべきことは、仮に作品にこのシールが貼ってあったとしても、これは直ちに彝が描いた真作であることを証明するものではない、ということである。

 そのシール自体が偽造されたものでない限り、それは、彝の画室の所蔵品であることを取り敢えず確定しておこうとするものだ。

 しかもこのシールがすべて印刷されたものなら、未使用の余分なものが生じていた可能性も考えられる。よって、それが適切に処分されなかった場合は、後々に誤った用いられ方がされた可能性も排除できない。
 さらに、彝の画室には、本人以外の画家たちの作品もあったかもしれない。
 従って、このシールのある作品は、彝の真作ではあっても、むしろ死に至るまであまり人目を引かず、生前に人手に渡らなかった作品に貼られたとも言えるし、彝の画室に出入りしていた画家たちによる模倣作品などにも、間違って貼られたことなども考えられる。当然、スケッチ類などには、数多く貼られた可能性も推測できる。
 であるから、「中村画室倶楽部所蔵」印シールだけでは足らず、真作であることをもっと強く保証することが必要だったと見られる作品もある。(ちなみに、番号付きで貼付したシールの登録台帳のような重要備品は、そもそもあるのかどうか不明だが、まだ発見されてはいない。古本取扱業者諸兄は、これに注目されるだろうか。)すなわちシールの他に、鶴田吾郎や二人の鈴木氏らの裏書なども加えられた作品が現にあるだろう。
 一方、彝の存命中から人手に渡って、もちろんこのようなシールなどのない真作も多い。むしろ、油彩画などでは、シールなどのない真作に彝の優れた作品があると言えなくもない。

 では、なぜ遺品の整理に直接手押の印でなく、印刷された「レッテル」、すなわちこの印章型のシールを貼ったのだろうか。油彩画の木枠や画布の裏では手押の印が難しいという理由があったのかもしれない。だが、紙の作品にもこの印刷した方印を切り取って貼っていったのは、手間ひまかかる作業だったに違いないし、それらにはスタンプ印やエンボスなどの方がよかったのではないかとも思われる。

 だが、いずれにせよ、彝の遺品の中には、日常身の回りのものだけでなく、作品類なども予想に反して、かなり多かったのではないか、という疑問もこうして見てくると湧いてくる。

 ところが、鈴木良三氏は、その著書に「ベッドの下の戸棚の中にあった板寸の油絵は全部生前に私に命じて燃してしまったので1枚も遺っていなかった」と書いている。
 ただ、没後に、物置にしていた玄関に50号の「婦人像」の画布が巻かれていたのが発見され、皆で大喜びしたというエピソードを氏は書いている。
 おそらくこれは、現在はメナード美術館にある魅力的な未完の俊子像のことだろう。この作品は、あたかも成就しなかった彝の恋の「心の真実の形見」のように、封印されて遺されたのかもしれない。
 この作品は、酒井億尋が「買い取ってしばらく所蔵していた」と良三氏は語っている。

 そして、氏はこれに続けてこう語っている。
 「その他にはスケッチブックや便箋などに描きちらしたような自画像や、エスキースなどがあったが、これも側近といった連中が、二、三人で分配した程度で、油の作品は無かった。」
 油絵がなかったことを再度強調し、明言している。スケッチ類なども、側近の人たちに「分配」されてしまったらしい。

 しかし、である。実際には、彝没後に「中村画室倶楽部所蔵」シールが貼られた作品が、年々、少しづつ確認されている。特にスケッチや素描の類に付されたCの番号が目につく。これらは「側近」筋から出てきたものであろうか。
 また、良三氏が油絵はなかったと明言しているにもかかわらず、Aの番号も皆無ではない。
 もし、Aの番号が、本記事で類推する通り、油彩画に振られたものとするなら、まだ未知の作品がかなりあることも想像される。

 印刷された「中村画室倶楽部所蔵」シールの謎は、今後、さらに深く解明されなければならない問題を多く含んでいる。

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