『北斎漫画』ブラックモン発見の通説

 フランス19世紀後半に活躍した版画家ブラックモンが、1856年に『北斎漫画』を発見したというのは、今日でも通説となっているようだ。
 だが、この通説は、以前から疑念が持たれていた。

 最近、太田記念美術館のブログ記事「浮世絵が陶磁器の包み紙として海を渡ったのは本当?という話。」を読んで、そのことを思い出した。

 その疑念というのは、ブラックモンがというよりも、その発見の年代についてである。

 エドモン・ド・ゴンクールはそれよりも早く自らが1852年に一冊の「書画アルバム」、つまり「絵本」を買ったと1881年刊の『ある芸術家の家』で述べているが、この主張は一般に認められていないと思う。
 19世紀も1880年代の頃になると、フランスの芸術家や批評家たちは、自分こそが日本美術の最初の発見者だと言いたかったのだろうか。

 ブラックモンの場合、自らそう書いたわけではないが、1856年にドラートルのところで『北斎漫画』を発見したという。だが、その1856年というのは早すぎるという問題があるのだ。

 ペリーが初めて日本に来たのは1853年のことだが、欧米と日本が修好通商条約を結んだのは1858年のことだし、その後ですら、来日欧米人の身の危険はあったのだから、長崎のオランダ人を除き、それ以前の彼らの日本滞在というのは、座礁とか海難事故などの場合は別としても、殆ど考えられないことなのである。

 ところが、ブラックモンがドラートルのところで発見したという『北斎漫画』は、これまであまり強調されていなかったように思うのだが、実は「日本に居住しているフランス人」によって送り出されたものとされていたのだ。

 しかし、1850年代頃のフランス人と言えば、よく知られているのは、カトリックの司祭メルメ・カション、ジラール、フューレらであろう。彼らは、当初、フランスの軍艦または商船で琉球にやって来たのであろう。
 それは、1855年頃のことで、彼らは、その後、厳しい監視のもとにおかれ、信者をほとんど獲得できず、やっと日本語を学んでいるという状況であったようだ。

 さて、一般に知られているブラックモンの『北斎漫画』発見の記述、すなわち、彼は摺師ドラートルの工房で、日本から送られてきた磁器の緩衝材(または仕切・固定材)として用いられていた赤い表紙の『北斎漫画』を発見した、云々というのは、レオンス・ベネディットの記述に基づくものである。
 そこで、これを読んでみると、実はこう書いてあったのである。(※フランス語原文は、先のリンク先に引用されている。)

 「この本は非常に柔らかく弾力性に富むものだったので、日本に居住していたフランス人によって送り出された磁器の緩衝(仕切・固定)材として用いられていたものだった。」

 だが、1856年当時、果たして日本に居住していたフランス人がいたのであろうか。これは大いに問題にすべき点であった。
 オランダ人が日本から送り出した陶磁類の緩衝材の中から発見されたと言うなら1856年としてもあり得るだろうが、「日本に居住していたフランス人」とあるからには、そこを読み飛ばすわけにはいかない。
 先に述べた琉球にいたカションたちは、厳重に監視されていたらしいが、フランスの軍艦または商船がそこまで来ていたので、あるいは琉球から、それに乗っていたフランス人が秘密裡に有田焼などの磁器を積載、または依頼されて送った際の緩衝材として『北斎漫画』が用いられた可能性は残るが、これが日本に居住していたフランス人となるのかどうか。

 また、その緩衝材である『北斎漫画』の入った箱入り磁器は、日本から直接に摺師ドラートルのもとに送られてきたとの確証もなく、ドラートルもまたそれをどこかから買い求めた可能性もあろうから、1856年当時、「日本に居住していたフランス人」が磁器を送るのにその緩衝材として赤い表紙の『北斎漫画』を使ったという記述の信頼性は、どうしてもある程度は揺らぐと言わざるを得ない。

 そもそもベネディットは、それがどうして当時、「日本に居住していたフランス人から送られてきた」と確認することができたのであろうか。それは単にドラートルまたはブラックモン由来の伝聞をそのまま書いたということではないのか。

  しかしながら、大島清次氏は『ジャポニスム  印象派と浮世絵の周辺』(1980年刊)の中で、池上忠治氏の論文を紹介しつつも、1862年のブラックモンの銅版画「見知らぬ奴(家鴨と亀)」以前にも、彼の版画作品には、「日本美術に影響されたと思われる作品がかなりあって、それらの制作年代も、『北斎漫画』発見の1856年付近にまで達するのではなかろうかといったこと、あるいはもしかするとそれ以前にさえさかのぼり得るような気配さえ見えるといったことなどだけは指摘しておきたいと思う」(27頁)と書き記している。

 これを読むと、大島氏は、ブラックモンが1856年よりもさらに以前に日本美術の影響を受けていた可能性があることを、おそらくは彼の作品と日本美術との図像的または様式的な比較・検証からどうしても示唆しておきたかったようだ。(大島氏はオランダ、清国経由での流入の可能性も考えていたようだ。)

 だが、私には、ブラックモンがドラートルの工房で『北斎漫画』を発見したのが事実だとしても、それが1856年のことであったかどうかは判断が非常に難しいように思われる。
 むしろそれは修好通商条約のあった1858年以降、おそらく1860年前後から62年までのこととするのが、「日本に居住するフランス人から送られた」というベネディットの記述にも矛盾なく、合致するように思われるのである。
 また、一方、ホイッスラーがパリにいた1856年にブラックモンが『北斎漫画』をドラートルの工房で発見したというペンネルの記述や、さらにそれ以前のベネディットの記述が事実なら、ブラックモンがドラートルの工房で見た磁器の箱は「日本に居住するフランス人から送られて来たもの」ではない可能性の方が高いように思われてならないのである。

(※ベネディットが、1905年の『ガゼット・デ・ボザール』34号で書いた「ホイッスラー」でもブラックモンの『北斎漫画』発見に触れているが、ここでは、「日本に居住していたフランス人から送られてきた」の部分はない。自ら不都合な記述と気づいたのだろうか。)

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