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中村彝の洲崎義郎宛書簡(1)書簡集の意義と日付の誤り

 中村彝の洲崎義郎宛書簡は、彝が書いた詩文や書簡などを集めた『藝術の無限感』に収録されているが、1997年(平成9)に新潟県立近代美術館が編集した『中村彝・洲崎義郎宛書簡』もきわめて重要である。
 と言うのは、ここには『藝術の無限感』にまだ含まれていなかった洲崎義郎宛の書簡も活字となっているからである。彝の研究には欠かせない非常に重要な貢献と言えることは間違いない。

 ただ残念ながら、展覧会図録と共に発行されたこの冊子には、書簡原文の読みが甘いところがあり、おそらくは誤読と思われる点が目立っている。
 例えば、鈴木金平の《金平》が、あるところでは間違っていないのに、他のところでは別の読みになっていたり、固有名詞以外にも明らかに読み違いと思われるものがあるので読者はかなり神経を使って、注意して読まなければならない。
 
 しかし、これよりもこの冊子でもっと注意すべきことは、書簡の日付の同定に誤りと思われるものが幾つかあることである。

 これは書簡に書いてある日付の読み誤りというよりも、書簡の内容をあまり吟味していないことから起こったことだろうと思う。
 おそらくは、封筒とその中身が一致しておらず、あるいは封筒が紛失したりしていて、書簡の内容をあまり吟味しないまま、日付や年を与えたためだろうと想像される。

 書簡の書かれた年月日の誤りはそのままにしておけないので、気付いたところ3通をここに記しておこう。

 先ず大正9年4月11日とされる書簡。
 この書簡には、ある《会合》が彝のところで「来月5日」に開かれることになっており、洲崎が来るのを皆が待っているという内容が書かれている。
 そこでは、長谷部(英一)のビオロン、(鈴木)金平(「金原」は誤読)の長唄、(鈴木)良三の薩摩琵琶などが披露され、料理は「ニンツア直伝のポールシチュウ」が待っている。そしてその会合が済んだ翌日から「君の肖像を初めます」とある。
 洲崎義郎の肖像画は大正8年には完成しているから、この書簡の大正9年というのはどうもおかしい。
 この書簡には、「長谷部が福田君の肖像をかくため為」に彝の画室を使用しているという記述も見られるが、本来、長谷部は大正8年の夏、彝が平磯に行っている間に彝の画室で福田(久道)の肖像画を描くために借用していたのである(大正8年8月29日、洲崎まさ子宛書簡)。それが、彝が平磯から戻ってきてから、翌年までも続くはずはない。
 また、大正8年10月3日の書簡には、《会合》は6日に改めましたという記述が出てくる。
 こうした書簡相互の繋がりから総合的に考えると、問題の書簡が大正9年4月11日に書かれたはずはなく、それは大正8年の9月下旬ころに書かれたと判断するのが妥当であろう。大正9年4月11日という具体的に過ぎる誤った日付は、編集途上の何らかの理由があって生じたものではないか。(続く)

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