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徳川慶喜の人物像-司馬遼太郎『最後の将軍』(3)

 司馬遼太郎は、慶喜について「習字、漢学、国語、和歌、馬術、弓術、剣術、槍術、騎射術…どの科目も世間の秀才なみのことはできたが、それ以上ではなかった。この人物の器局は、教授されることが苦手で、それよりも自得する才能に長けている様子で、学ぶことにあまり熱心ではなかった。…家康以来の英雄であるという評が慶喜の敵側からも出るようになるが、東湖がそこまで評価したかどうかはわからない」とも書いている。(34頁)

 慶喜は人から教えられたりするのはいやなのだ。その代わり、自ら興味を持ったものは、どこまでも追求するタイプなのかもしれない。強制されたり、干渉されたりするのは好まず、好きなことには没頭する、まさに趣味人だ。

 そういう人だから、彼は本当は、自ら進んで将軍などになりたくはなかったというのは、おそらく真実だろう。政治的野心といったものはほとんど持たなかった。

 だが、周囲の人々と時代の状況が、彼をどんどん思わぬ方向に押し上げて行った。
 御三家、水戸の斉昭の子で、世間の秀才なみというほどの評価のある人物なら、あとは時代が、彼を要請するのを待つだけで十分だったのだ。いや、待ちもしなかったのだろう。なかば自分の意思とは関係のないところに引っ張り出されていくと自らは思ったかもしれない。

 水戸の斉昭を嫌っていた12代将軍の家慶だが、「瞳が定まらず」、「幼児なみ」の意思疎通の能力しかない13代の家定の跡目として、慶喜を考えたことがあったとしても驚きではない。
 13代将軍の家定には子をもうける能力があったかすら、疑われていたのである。

 対して慶喜は、父の斉昭の血を受け継いでいたのか、女性への好奇心は強かった。「慶喜の、その生涯の癖は好色であるといっていい」(43頁)とすら司馬は書いている。女性の秘部を描いて、平岡円四郎に「須賀はこれだ。みな、こうか」と確かめたりした。

  さて、「韜晦逃避の心がある」慶喜を幕府の中で押し立てていったのは春嶽松平慶永だった。
 生母とその周囲の人たちとしか意思疎通がうまく行かないような13代将軍では、夷狄の侵入という国家の危難を避けることなど到底できないからだ。

 幕閣と大奥は、尊王思想の淵源たる「あくの強い」水戸を用心し、常に嫌っていた。
 が、島津斉彬は、「大奥の水戸嫌いを軟化させようとして」家定の妻に、養女の篤姫=天璋院を送り、さらに家定のかじを取ろうとした。
 幕府の阿部正弘は、「禁を破り、島津と手を握り、水戸とも握手し、その力を利用することで列強の侵犯を防ごうとした」のである。

 12代将軍家慶が没する年のペリー来航以来の衝撃はきわめて大きく、天下騒然となり、幕政はますます揺らいでいく中での阿部正弘の判断だった。(続く)

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