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オープン・ジャーナリズムの話

備忘録なので大したこと書いてないんだけど、

深刻な課題をメディアで取り上げようというとき、メディアは「当事者」の声と「専門家」の声を伝える。当事者の苦しみや怒り、課題の重さを広く伝えようとするのだから当然だ。課題をいかに克服すればいいのかを専門家に聞くのもよくわかる。だから、だいたい新聞もテレビもそういう構成になってる。ぼくもかつて報道記者だったので、普通に考えたらそう作る。

けれど、原発事故後の福島に住み続け、ここ数年、障害福祉に関わるようになって、こんなことを考えるようになった。

当事者の悲痛な声は、似た境遇にある人たちの共感を生むけれど、そうではない人たちは「おれは当事者じゃないからなあ」と思ってしまうし、「大変だなあ」と同情はしてくれても「次の一歩」にはなかなか進まない。一方、専門家の話は、「うむ、確かにそうだなあ」とは思うものの、やはりどこか他人事になってしまう。「大変な問題なんだなあ」とため息つをついて、そこで終わってしまうのだ。つまり「自分ごと」になりにくいのである。

過酷な課題ほど、部外者たちは「関わりのハードル」を高く感じてしまう。自分のような素人は関われないぜと思ってしまったり、専門家が関わればいいのでは? と思ってしまったり、正しい関わりを追い求めて二の足を踏んでしまったり、こんなゆるい関わりでは怒られてしまうのでは? と気にしてしまったり。で、しまいには、遠慮して関わらなくなっちまう。

原発事故や放射能のこと、複雑な問題の背景を把握していないと福島のことは語ってはいけないのでは? と思ってしまうし、ぼくは家族を失ったわけでもないし、津波にも被災していないしと思って遠慮してしまう。障害福祉も同じで、基礎知識や当事者性・専門性がないと、なかなか障害のことを語れないよなとか思ってしまう人も多いかと思うけれど、「そんなことない」というのがぼくの考えだ。意外と、課題は部外者たちに開かれている。

ぼくは、高い当事者性や専門性がなくとも、つまり「当事者」ではなくとも、自分の関心や好きなことを通じて課題と「事を共にする」ことはできることを知った。で、そういうゆるい関わりを通じて、当事者とは別の回路で課題に接してしまう人たちを「共事者」と呼ぶことにした。

ぼくは、課題解決にはこの「共事」が大事だと思っていて、近頃は、いろんなメディアに寄せる文章に、この「共事者」という言葉を入れることにしているわけだが(ゲンロンβや朝日新聞の連載とか)、メディアの伝え方にも同じことが言えるなあと、ここのところ感じている。

本稿の最初に書いたようなメディアの伝え方、つまり、当事者と専門家の声のみを伝えようとする「当事的」な報道ではなく、ゆるい関わりを許容し、課題の外側の声も併せて伝えようという「共事的」な報道があるのではないか、両者をつなぐことが本来のメディアの役割なのではないか、と。

当事者の悲痛な声や、冷静な専門家の声、だ・け・で・な・く、「外部の立場のくせに自分ごとにしてしまっている人」の声も併せて紹介するのだ。テレビを想定して超絶簡単に説明すると、、、

通常は、
当事者:辛いです、苦しいです、納得できません、怒ってます。
専門家:行政サポートを充実させよう、自治体や企業のサポートも必要。
アナ:私たちも問われていますね。無関心ではいられません。
と、安直にまとめようとするじゃん。

ではなくて、もう少し「共事者」側の声を加えていく。
当事者:辛いです、苦しいです、納得できません、怒ってます。
専門家:行政サポートを充実させよう、自治体や企業のサポートも必要。
共事者:こんな風にサポートできるなんて知りませんでした!
共事者:ハードル低いし、すげえ楽しいっす。勉強になります!
みたいな感じ(すげえ安直に書いてるのは理解してる)。

当事者から「あなたも当事者なんですよ」と言われると、うううっってなっちゃうし、専門家から「お前も関われ」と言われる説教臭いしハードルが上がるけど、自分と同じような素人が素人のことばで「楽しいっす」と等身大に語る。そういうチャンネルも必要なのではないか。

課題が重くなっているところって、当事者とその周辺に負担が押し付けられて孤立しちゃってるところが問題だったりする。だからこそ、多くの人に知ってもらいたい、多くの人に関心を持ってもらいたいと思っている。それなのに、当事者ゆえに、専門家であるがゆえに、周囲の関わりのハードルが上がってしまうのだとしたら、なんという悲しいジレンマだろう。

だから、課題を外に「開く」ことで、部外者の側に関わりを増やし、関心を高め、多くの人が「自分ごと」として考えてもらう。そういうスタイルを取り入れていくことが、遠回りだけど近道なんじゃないかしらと思うようになった。

障害にも個人モデルと社会モデルがある。それと同じように、課題にも「当事モデル」と「共事モデル」を作ってしまえばいい。そういう新たな手法として生み出してしまえばいいのでは・・・みたいな話を、昨日の仕事場だった浜松で、たまたま取材に来ていたメディアの人としていて、そこでぼくは勝手に「オープン・ジャーナリズム」と名付けたわけだ。

ぼくはメディアの研究者でもないし専門家でもなければ、メディア企業に勤めているわけでもない。したがってさほど当事者性もないけれど、メディアにはまだまだ可能性があるし、記者やディレクターさんの専門性を生かすも殺すも、部外者のぼくら次第だよなあ、などと勝手に思っていて。

素人だからこそ、部外者だからこそ、垂直方向に当事者性や専門性を高めていくのとは別の、水平方向にどこまでも展開して、1の関わりを増やすような報道もあるんじゃないか、それをもう「オープン・ジャーナリズム」とか名付けちゃって盛り上げていけばいいんじゃね? そうでもして関わりしろを増やしたほうが、結果的に解決に向かって進むのでは?

とか軽々しく思っているのだが、ちなみにこの手法、ぼくはもうすでに、いわき市で関わっている地域包括ケアのメディア「igoku」や、月一で通っている浜松市のクリエイティブサポートレッツが運営するウェブマガジンで実践している。当事者でも専門家でもない。ド素人の部外者だけれど、社会課題に関わってしまう。こんな風に関われる! を実践中だ。

思いついたことを書いただけなので、今後、考えを深掘りしていくことにする。



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