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給料日前日

夫のお小遣いが、今月は3000円くらい残っているらしい。

彼は本当にやりくり上手なので、お金の話になるとわたしはいつも胸が詰まるのだが、今日はそんな話ではなかった。「この3000円を握りしめて、どこか飯でも食いに行こう」やったー!しかし、食べ盛りの中学生を連れて、3人で予算は3000円。おのずと店は決まってくる。近所の定食屋、ラーメン屋、うどん屋、それから回転寿司あたりが無難な選択肢だ。

結局、回転寿司の店に決まった。テーブルに着くと、娘は流れてきたサーモンに飛びついた。次々に皿を取り、わたしが1つ目の皿を手にするまでに、3皿を平らげた。そこでわたしの頭の中には「予算」のふた文字が、レーンを流れる寿司皿のようにスーッとよぎった。

とはいえ、楽しく食べて、そろそろお腹もいっぱいになってきた。これは予算内で収まるな、と思った瞬間、娘が言った。「ねえ、茶碗蒸し食べていい?」

しまった。これはまずい。娘は「もの」に感情移入ができるタイプの人間だ。わたしたちが席に着いてから、茶碗蒸しが3つ並んで回り続けていた。おそらく、わたしたちの入店前から流れていたであろうその茶碗蒸しは、誰に選ばれることもなく、淡々と回り続けている。10分に一度くらいのペースで茶碗蒸しが横切るのを娘がじっと見ているのが、気になっていた。夫が「食べていいよ」と言うと、娘はにっこり笑って、冷めきった器をひとつ取り上げると、さっそく食べ始めた。

ふと、わたしは視線を感じて、顔を上げた。待合いのイスに座ったおばさんが、じっとこっちを見ている。目が合っても視線を外さない。これは動物界では戦闘体制に入ったと見なされる。わたしはこれに弱い。逃げたい。

娘が食べ終わるのを待って「そろそろ帰ろうか」と声をかけるも、「やだ、まだ食べたい」とごねる。「ねえ、次に茶碗蒸しが回ってきたら、また食べていい?」なんでだよ、今食べたじゃないか。「だって、まだ食べたいんだもん。お父さんとお母さんも食べる?」いらないよ「あと2つあるよ。残ったらかわいそうじゃない?」いや、他の誰かが食べるんじゃない?あなたが責任を感じて食べる必要はないんだよ。それよりね、お母さん、居心地が悪くて、早く帰りたいんだよ。

おばさんはじっとこちらを見ている。完全にロックオンされている。わたしの後ろの席が空いたので、視線地獄から解放されるかと思ったら、別のお客さんが案内された。
2つ目の茶碗蒸しを食べる娘。さっきまでの楽しい気持ちは何処へやら。

2つ目を食べ終わると、娘が「もうひとつ食べていい?」と言った。夫は、しょうがないなあ、という顔をしたけれども、わたしは「もうダメです」とタッチパネルの「お会計」を押した。おばさんの視線は早く席が空かないかという念に満ちていて、わたしはすぐにでも立ち上がりたかった。

会計を済ませ、家に戻る夫も娘も楽しげだが、わたしは食べたものが消化できるのかどうかわからないくらい、緊張していた。…もう娘と回転寿司には行きたくない。

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