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父にベルトをプレゼントしたかったのは

こんにちは〜!

私の頭の中は年中春で常にお花畑なのですが、本格的に暖かくなってきて中野では桜が満開です!

さてさて今日は!

私のムエタイ人生を語る上では切っても切れない父との日々、

父娘の物語を綴ってみようと思います。


私の父の紹介をします。

タイ・バンコク生まれで5人兄弟。早くに父親を亡くしており、長男であった私の父は10代から祖母、姉、弟、家族を養っていました。

小さい頃から喧嘩好きで、登校前にお寺でやっている小さなムエタイの試合に出てはお小遣い稼ぎをし、先生にこっぴどく叱られながらも、喧嘩しながら銭を稼ぐスタイルがたまらなかったのだそうです。(やばい小学生)

そこで本格的にムエタイの選手となり、その才能ときたら神かかったもんで速攻でルンピニー、ラジャナムナンスタジアムのランカー入りし、チャンピオンにも逃げられていたのだと、当時を知る父の同期のおじさま方から聞いております。

タイのジムは日本とは違い、選手はジムから衣食住が与えられ、ファイトマネーで生計を立てるのが一般的。

父は所属していたのはサシプラパージム。

今でこそ、サシプラパージムの会長といえばその近辺を顔パスで大抵のことが許されるほどの権力者ですが、父が現役当時はジムがまだまだ知名度もなく貧乏。

そのため、稼ぎ頭であった父は自分の家族だけでなく、ジムの経営も支えていたのです。

当時のムエタイはチャンピオンになるとファイトマネーが激減するほど、ベルトの価値が非常に高いものであったため、とにかくお金を稼ぐことが第一優先であった父はタイトルマッチを全て蹴っていたようです。

稼ぐことが優先とはいえ、喧嘩大好きな父はとにかくムエタイの練習が幸せすぎて、全く苦ではなかったようです。

人を殴って蹴って金までもらえるなんて、なんて最高な人生なんだと言わんばかりに、練習後も仲間をとっ捕まえては寝るまで練習していたという馬鹿がつくほどのムエタイ野郎だったみたいです。(仲間にとっては迷惑極まりなかったに違いない)



稼ぐために、家族を養うために、ジムを守るために、



タイトルは諦めた。



・・・・てな感じだとストーリー的に泣けるけど、

そんなムエタイ野郎だった父なので、実はタイトルなど当時は興味のカケラもなかったようです。


私はムエタイでベルトを巻いて、そのベルトを父に巻いてあげたいと思ったのは他の理由でした。


日本に帰国したとき、私は中学一年生。

理由は日本の教育を受けたいと思ったから。

両親はそんな私の願いを叶えるべく、タイで経営していたお店をたたみ、家を売り払い、家族で日本に住むことになります。

ここから日本の冷たい壁にぶち当たることとなり、冷たく刺さる風を浴びていくこととなりました。


とりあえず、母方の生まれ故郷、愛媛に住むことになりましたがなんと。


人種差別があったとは思いもせず。


父がタイ人ていう理由から住むところがなく、母の実家を頼りましたが、

親戚からはタイ人という差別を受けます。

タイではロレックスだのオメガだのを巻いた左手でベンツやボルボを乗り回し、あんなに威厳があって強く輝いていた父が、愛媛での暮らしによって子供の私から見ても日に日にしょんぼり小さく見えてきました。

言葉もカタコト。

田舎ではどこに行っても自分の日本語が通じないことにもショックを受けたようです。

ですが、そんなことに負ける父ではありませんでした。


私と母を、父にとっては異国である日本で守っていくためには戦わなくてはいけない。

当時40歳も半ばに差し掛かる父は1人、東京へ上京していきました。


仕事を探しても、タイ人である父ができる仕事はなかなか見つからず、貯金が減っていく一方。

毎日マクドナルドの100円のハンバーガーを食べながら、なんとか知り合いのおばさんに住すところと外国人でも雇ってくれるアルバイトとキックボクシングジムのコーチを始めました。


当時は他のタイ人コーチと同じ。

タイではレジェンドである父も、日本では誰も知らない人。

最初はきっとアルバイト先などで、私には計り知れなかったほどの悔しい思いをしたこともきっとあったと思います。

当時幼すぎた私は、そんなパパかっこ悪い。恥ずかしい。って思って口もきかず、周りの友人にはなるべくタイのハーフだということを知られたくないとさえ思ってしまい、相当ひどい態度をとっていました。


それでも父は私や母を貧乏させず、夜勤を終えてからキックボクシングジムで働き続けました。


そのキックボクシングジムは当時18年目にしてチャンピオンが1人もおらず、父が指導に入ったことでチャンピオンが一気に10名近く誕生したのです。


ジャッジ・レフリーに関して、採点基準・レフェリングの秩序のなさに驚き、指導に入り、当時のとある連盟は見違えるほど体制が整い、一気にカリスマレフェリーにまで昇格。


そして2005年。東京中野でセンチャイムエタイジムオープン。


選手はアマチュアから圧勝。

プロデビューした選手はほぼチャンピオンになりました。

「もともとダイヤモンドはここにはいない。私は石を磨いてダイヤモンドに見せて並べている。本当の天才は私だ。」


というかっこ良すぎる名言を残しております。


と書くとなんだか物語終了っぽいですが。

今日も私の父は元気に生きていて、孫と遊びまくりです。


そんなわけで、今日の私がここにいてムエタイに救われ、なお何者でもなかった私を世界チャンピオンに産み育てた父にはどうしてもベルトをプレゼントしたいのだとデビュー戦を終えてから思っていました。


日本の冷たい風に勝った父に。

ゼロからのスタートで一気にジムを大成功させ、抱えた選手をチャンピオンに輝かせた父に。

私の中で、父は紛れもなくチャンピオンです。


人は自分のためには頑張れない。

幸せに生きているだけでも頑張れない。

守りたい人と見返したい人間への復讐心のように燃えたぎるエネルギーが思わぬ成功へ導くものなのだと思います。

家族という守るべきものと、タイ人だからと馬鹿にしてきた人間。

今、私がトレーナーとしてやっていく原動力も同じ。

守りたいものと見返した人間がいるから。


父に巻いたベルトが今も私にパワーをくれてるので、今でももらってばかりだなぁ・・


皆さんは守りたい人はいますか?


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