見出し画像

恋するボゴタ

実際会った彼は、とっても優しい人だった。

4日間ずっと一緒にいて、窮屈さもイライラも感じなかった。
朝起きたらコーヒーを淹れてくれたり、シャワーを浴びている間にベッドを直しておいてくれたり、寒いと気づくと毛布を膝にかけてくれたりした。
一緒にいることがとても自然で、ずっと前から一緒に住んでいるみたいだった。

いつも一定で、目が合うとニコニコしていた。
ニコニコというより、ウインクのできない人がやるような細い瞬きで、その顔がたまらなく可愛らしかった。
全てが楽しかった。どこへ行っても何をしてても楽しかった。彼はいつも安定の優しさで、気遣いの言葉をくれた。冗談でも悪いことを言わなかった。例えば、「よだれ垂らして寝てたよ」とか。
「可愛い顔で寝てたよ」と必ずそういう言葉を使う人だった。
それは会う前から知っていた。冗談でも意地悪なことを言ったりしない人だ。そういうところがリハビリ中のわたしにぴったりだったのだ。

実際に会ったら、もうリハビリとは言っていられない。まだ心の一部は死んでいるけど、わたしたちは恋人同士になることにした。
まだわたしは、先のことを見られない。この人と生きていくんだとか、そういう風には考えられない。なかなか会えないとか、遠い距離にいるとか、そしてそれが問題になるとか、そういうことも考えることができない。いや、考えなくていいのかもしれない。

会う前から楽しかった。毎日挨拶から始まって、ずっといろんな話をしたり、「何してるの?」「ご飯もう食べた?」「仕事はどうだった?」そういうことを続けて来た。
実際の彼もそのままだった。
一緒に歩いても、食事していても、いつも気遣ってくれた。いろんな話を話してくれた。
実家に呼んでくれて、お母さんの手料理を振る舞ってくれた。部屋で日本語の本や描いた絵を見せてくれた。
いつか見た光景のようだった。言葉にすれば、2年前に前の彼氏がしてくれたことと同じかもしれない。でも同じには感じられない。わたしは変わったのだ。そして当たり前だけど、横にいる彼もまったくの別人なのだ。
なのにどうして2年前と同じような光景などと思うのだろう。
未練か?いや違う。それはない。多分おそらく怖いのだ。また同じように始まって、終わるのが怖いのだ。

心がそこまで恋人を求めていない。
おはよう、おやすみ、気遣いの言葉たち、
それだけでいいと思っているのも本音だ。
でも、これ以上そんな風に続けられるのだろうか。いつまでも言葉だけ与え合って、またいつか数ヶ月後にメキシコかコロンビアで会って、楽しく過ごして恋人同士のようなことをして、それは彼を裏切ることになりはしないのだろうか。
言葉が大切なんじゃない。わたしの心だ。心を分け合う事が恋愛なのだろうから。
彼は知っている。
わたしがまだ前の恋愛で起こったことを消化しようとしていて、そこから回復しようとしていることを。
だからゆっくり進めばいいと言ってくれた。

考えれば考えるほどわからなくなる。
恋人になるって一体なんだ?今と何も変わらない。心の結び付きの問題であって、周りに言いふらすためじゃない。
だからこのままでもよかった。
実際会ったらどんどん素敵なところを見て、本当に心から楽しくて、それが恋の幻想でも、実は悪いやつでも、わたしはどうでもよかった。
そうだ。彼氏を作るなんて、そんな大したことじゃないのだ。終わる確率は95%くらいで、そんなことは、蝿が部屋に入ってくるくらい当たり前で、些細なことなのだ。
だったら。どうして恋人になるのだろう。
もし、その人を自分のことのように思いやることができて、その人との結婚式や子供を思い描くことができることが恋人になる条件なら、わたしにはまだ無理だ。まだというかもうずっと無理かもしれない。
わたしは彼氏が欲しいのではない。彼氏とやるような事が欲しいのでもない。
ただ彼のことを好きになってしまっただけだ。
年齢差や、距離や、さまざまなことを取っ払っても、今の彼と一緒に過ごした時間が楽しくて、もっと一緒にいたいと思ったことは事実だ。
でも同時に、これ以上はまだ一緒いない方がいいと頭をそんな事が掠めてたのも事実だ。これが近い距離に住んでいて、また来週、そして再来週などとなるのは、まだ怖かった。

まだ自分のことばかり考える。
わたしの将来、わたしの仕事、わたしの人生。
でも好きな人のそれらを考えてあげられない。
いや、考える必要などないのか。

人とわたしは別物なのだ。いつまで経っても、どれだけ理解しあっても、わたしが欲しがっていたような「一致」は得られないだろう。
だからきっとこれでいいのだ。

一瞬一瞬楽しくて、それが続いているだけなのだから。人生は。



#まとまらない文章 #恋愛