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比良明神白髭神社


あふみ

比叡山の麓、楽々名美(さざなみ)や志賀の浦の辺に、釣を垂れて座せる老(らう)翁(をう)あり。釈尊これに向って「翁もしこの地の主ぬしたらば、この山を吾われに与へよ。結界の地となして、仏法を弘ひろめん」と宣(のたま)ひければ、この翁、答へて曰く「我、人寿(にんじゅ)六千才の始めよりこの所の主として、この湖の七度まで桑原(くはばら)と変ぜしを見たり。ただしこの地の結界となりては、釣する所を失ふべし。釈尊早く去りて他国に求め給へ」とぞ惜しみたり。この翁は、これ白鬚の明神なり。


比叡山の麓、志賀の浦のほとりで、釣をしている翁がいました。釈迦は翁に向い「翁がもしこの地の主であるならば、この山を私に与えよ。俗人立ち入り禁止の地と決めて、仏法を広めようと思う」とおっしゃったところ、翁は「私は人寿六千歳のはじめから、ここの主として、この湖が七度まで桑原に変ったのを見ている。この地が俗人立ち入り禁止の地となってしまっては、私は釣をする場所を失うことになろう。釈迦よ、早くここを去り、他国に地を求めたまえ」と惜しんで答えたのです。この翁は白鬚の明神です。

白鬚神社
別名 比良明神

「比良明神」の初見は平安時代中期の『日本三代実録』貞観7年(865)正月18日条の「近江国の無位の比良神に従四位下を授く」の記載であり、「白鬚」については鎌倉時代の「比良荘境相論絵図」に「白ヒゲ大明神」の記載が初見とされる。
 「比良」が「白鬚」に変わった理由として、大和岩雄氏は『神社と古代民間祭祀』(白水社)のなかで、「比良」は「黄津比良坂(よもつひらさか)」の「ヒラ」であり、境界の意味をもつ。これは生と死を統合した観念で、比良神社を白鬚神社というのは、本来の比良神社のもっていた死んでよみがえる再生感が、不老不死の長生感に変わったためだろうと記している。

 「白鬚」の名称の由来
①新羅系渡来人が祖神を祀ったもの「シラ」は、新羅の最初の国号「斯盧(シラ)」の意であり、斯盧(シラ)国から新羅(シラ)国へと国号が変わる過程で「シラギ」に転訛して「白鬚」になったというもの。
②白鬚(はくしゅ)は、百済(ひゃくさい)のことであり、百済系渡来神を祀った神社とする説。
現祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)となっているが、古くは渡来系の神を祀った神社であったと考えられている。

古語
「ひら」は古語で「崖」を意味する。

古墳群
この地に神社が建てられるより以前の古墳群、石室が山に残る。

岩戸社

石室

石室の中に人が入り玄室奥の祠に参るというものに対し、岩戸社は石室内に人が入るのを禁じ内を神の空間とする。

石室の屋根の部分




山頂辺りに御神体の磐座がある


鳥居
湖に鳥居が建てられたのは昭和12(1937)年、大阪の薬問屋小西久兵衛氏の寄進によるもの。現鳥居は昭和56(1981)年にこれを建て替えたものである。


湖北からの景色

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