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子どもに教えてもらった事

子どもが生まれて初めての春、
近くの公園にベビーカーを押し
行ってみた。

同じ月齢の子を連れたお母さんに出会い
初めてお話しした。

それまで孤独に育児をしていたので、
とても嬉しく楽しかった記憶がある。

天気の良い日は、毎日公園に行き、
親子共に、友だちが増えていった。

公園友達が増え、
育児サークルに参加する事も多かった。

娘は、人見知りせず
小さな子を見かけると、
直ぐ一緒に遊び始める。

親の存在を忘れているかのように…

公園から脱走したり、
友だちの玩具を奪ったり、
滑り台の順番をまもらなかったり…
誰かが泣くと、
「また娘が何かした?!」
と思ってしまう事だらけ…
ママ友に話しかけられても、
一時も目を離せなかった。

ショッピングモールに行くと、
レジで手を放した瞬間いなくなる。
慌てて探すが、
背丈が低くて見つからない…
どうしても見つからない時は、
館内放送で、探してもらう事が多々あった。

娘の服の胸には、
住所、名前、私の携帯番号を
書いた名札を付けて外出していた。

泣いていれば見つかり安いが、
娘は楽しく
よその子たちと遊んでいる為、
誰も気づかない。

有料の遊具で遊んでたり、
量り売りのお菓子を食べちゃってたり…
話してもわからない月齢の時は、
私が泣きたい事だらけだった。

親から放れたくない子のお母さんが
羨ましい…と思ってしまったものだ。

後から思えば、とても好奇心旺盛で
コミュニケーション能力の高い子だったのだと思えるのだが、
その頃は、
そんな風に思える心の余裕が無かった。

乳幼児検診では、
毎回、何かしらの発達遅れがあり、
歩行や言葉の遅れを指摘された時、
小児療育センターを紹介して頂いた。

小児療育センターは、
障害を持つ子どもをみてくださる病院
だった。
歩けない子どもたちも沢山いる中、
診察を待っている間、
楽しそうに遊び回る我が子を
大人しくさせるのに一苦労だった。

案内され入った部屋には、
机と階段、玩具が置いてあり、
マジックミラーがあった。

最初に机のある椅子に座るよう言われ、
座った娘に医師が色々な絵を見せて質問をしたり、玩具で遊ぶ様子を見たり、
階段の上り下りをさせてみたりの
診察だった。

マジックミラー越しに様子を見ている
医師もいたのでは無いか…
と、後から思った。

診察結果、
半年程度の遅れがあると言われた。
私は、注意欠陥多動性障害(ADHD)なのでは無いか…と思っていた事を相談した所、

きちんと座り、
話を聞き、
言われた通りの行動、
応答ができているので、
その可能性は低いと言われた。

「好奇心旺盛で、表情も豊かだし、
今どき珍しい位、
子どもらしい子どもさんですよ!」
と言われ、
ホッとして涙が溢れた…

それまで、自分と全く違うタイプの
娘の行動が理解できず、
行動を抑えつけたり、
感情的に怒ってしまっていた事を、
とても反省した。

接し方を改めて考える機会にもなり、
受診して良かったと思った。

障害では無いが、
半年程度、発達の遅れがあった為、
経過観察で数ヶ月おきに、
受診する事になった。

子どもが2才半になる頃、
夫の転勤で引っ越した先は、
療育センターから車で2時間半程の
場所だった。

引っ越し先は、
メゾネットタイプの集合住宅で、
同年の男の子達が3人も住んでいた。

声をかけて頂き、
毎日、外遊びや家を行き来し、
公園でも、また友達が増え
結構な人数の育児サークルができた。

男の子の一人っ子が多い中、
人一倍活発で自由な娘を見ていた
ママ友たちに
「活発で、大変だね~…」
と言われたものだ。

玄関扉の、娘が届かない位置に、
チェーンロックを取り付けたのだが、
私が熱を出し、
うっかり寝てしまった時、
踏み台を持って行き鍵を外し、
外で遊んでいたところを
ママ友が発見し、
連れて来てくれた事もあり、
ゾッとした事を覚えている。

娘は3歳になり、
徒歩5分の幼稚園に入園した。
入園初日から、
私の手を振りほどき、
元気に門を入って行った。

ママから離れられず泣いている子も多い中、
清々しいくらい、
振り返る事もなく走って行った。

迎えに行くと、
必ず園庭で遊び始める為、
なかなか帰れない毎日。

園庭遊び中のお喋りや
幼稚園の役員、
ボランティアを通じて、
私もまたママ友が増えていき、
大変ながらも
様々な場に入って行けた気がする。

娘は、
コミュニケーションの苦手な私を
人と繋げるために、
生まれて来てくれたのでは無いか…
と、思ったりした。

娘は、やりたい事をやりたいように
やっていただけなのだが…

子どもを通して、
『ありのままで良い』
という意味を知った気がする。