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横浜ベイスターズ暗黒史(TBS時代・後編)

皆様お久しぶりです。はじめましての方ははじめまして。最近は趣味の方の記事ばかり書いていましたが久しぶりに続編を書こうと思います。前編では横浜ベイスターズの親会社がTBSに変わってからチーム状態が悪化してきたこと、親会社TBSのフロントの悪かった点を簡潔に書き、2004年シーズンを終えたところまでをまとめました。今回はその後のTBS時代、そしてその終焉までをまとめたいと思います。

Aクラスに輝いた2005年

2005年から指揮をとった牛島監督
画像:横浜DeNAベイスターズ

2004年まで監督を務めた山下大輔監督を雑な形で解任させたTBSフロントは、後任として社内の野球解説者を務めていた牛島和彦氏を招聘します。牛島監督は現役時代はロッテと中日で活躍し、ベイスターズとは縁が無い選手でしたが、親会社がTBSである関係から引き受けた経緯があります。牛島は投手出身の監督であるため、崩壊していた投手陣の立て直しが期待されていました。実際に就任後は「クアトロK」と呼ばれた盤石なリリーフ陣を確立、さらに13年目の三浦大輔投手は10完投を記録し、エースとしての地位を確固たるものとしました。これら投手陣の立て直しに加えて、村田修一選手や多村仁志選手などを中心に打線は好調を維持し、シーズンを終えてみれば阪神、中日に次ぐ3位と、4年ぶりのAクラスに輝く大躍進を遂げます。TBSがフロントの時代でのAクラス入りはこの年が唯一の快挙でした。牛島監督の手腕は大いに評価され、続く2006年もAクラス入りが期待されたシーズンとなりましたが、開幕から低調な試合が続き、最終的には2年振りの最下位に終わってしまいます。牛島監督は最下位に終わった責任を取り、2006年限りで監督を退くことになるのですが、その真相は親会社TBS内の派閥争いに嫌気が差したためと言われています。

多村仁志選手
画像:Wikipedia


TBS時代のベイスターズは慢性的な赤字体質に陥っており、勝てない→お客さんが入らない→収益が上がらない→勝てない、のループにハマっている状態でした。このような状況下では球団を手放す方が良いという声も上がっており、TBS内では球団保有賛成派と反対派がいがみ合っている状態でした。こうした環境下ではチーム全体の士気が上がらないのも無理はないでしょう。フロントは、2005年に好成績を残した牛島監督の残留を求めましたが、結局2006年オフの退団が決定し、後任には優勝前の1997年まで指揮をとった大矢明彦氏を招聘することとなります。

新オーナーと球団常務の暴走

新オーナーとなった若林貴世志氏
画像:四国新聞

2004年オフに明るみになった一場靖弘への裏金問題の責任を取り、当時の砂原幸雄オーナーが辞任します。後任にはTBSの副社長だった若林貴世志氏が昇格しましたが、若林オーナーは万年赤字状態のベイスターズを快く思っておらず、球団保有には反対派の立場の人間でした。さらに若林オーナーは人事の面でも大きなミスを犯してしまいます。球団常務に自身の腹心にあたる佐藤貞二氏を据えたのですが、この常務は周りの意見を聞かずに、独断で行動してしまうような人間でした。
このように組織が崩壊している中で2005年のベイスターズは3位とAクラス入りを果たします。選手の多くが好成績による年俸のアップを期待しますが、これは全くの期待外れに終わりました。
オーナー側は牛島監督に経費削減を迫ったといい、キャンプ地を沖縄から湘南に変更させました。さらに2002年の経営譲渡後から球団専務を務めてきた山中正竹氏に事実上の左遷を言い渡し、山中専務は現場から追放。これにより佐藤常務が一気に球団を掌握する形となります。佐藤氏は常務という立場でありながら若林オーナーとの関わりが強い人間のため、球団社長などを飛び越してオーナーと直接やり取りする歪な組織構成となっていきました。獲得選手や監督交代の人事などを、球団社長やその他の人間は把握できていない状態になってしまったのです。このように組織としての形を成していないチームであったため、当然現場の士気も上がらず、負けに負けを重ねる日々が続くようになります。

名将 大矢明彦監督

大矢明彦氏
画像:フジ・メディア・テクノロジー赤坂オフィス

2007年、チームは退任した牛島監督に代わる指揮官として、優勝前の1997年までベイスターズの監督を務めた大矢明彦氏を招聘します。10年振りの現場復帰となった大矢監督はまず、チームを見て愕然とします。親会社TBSに毎年のように振り回される選手たちは、試合はおろか練習さえも真面目に取り組まなくなっていました。スパイクも履かずスニーカーで練習する選手や、焼肉パーティーをしてから試合に赴く選手、自身の入場曲をパチスロにしていた選手もいたほどです。また、主砲である村田修一選手は攻守交替でベンチに下がると、そのまま監督室に勝手に入り込み、ソファでテレビを見ていたという話までありました。もはや酷すぎて笑ってしまうレベルでしたが、大矢監督はさすがの手腕でチームの崩壊を防ぎます。補強として巨人から仁志敏久、ソフトバンクから寺原隼人を獲得。投手陣では西武、ダイエー、巨人で活躍したベテランの工藤公康、エースの三浦大輔を中心に白星を挙げ、この年はTBS時代唯一となるシーズン70勝を記録します。最終成績は71勝72敗1分で借金1と、5割まであと一歩の成績でした。

2007年のセ・リーグの順位、貯金の推移
画像:FC2

翌2008年、大矢監督は「優勝は難しいが今年こそCSを目指す」と宣言。前年には常勝の巨人、中日相手に善戦したことから、3年ぶりのAクラス入りが期待されたシーズンでした。シーズンに入ると、3番内川聖一選手は打率.378を記録し首位打者を獲得、4番村田修一選手は46本の本塁打王、5番吉村裕基選手も30本塁打を記録するなど打撃陣は大きな活躍を見せます。これだけの布陣ですからかなりの好成績を納めたかと思われましたが、順位は開幕から圧倒的最下位を独走します。まず開幕から3連敗を喫して最下位に転落すると、その後も大型連敗を含む低調な試合が続き、最終的に2003年以来5年ぶり90敗以上となる48勝94敗2分と散々な結果に終わります。この年は序盤から阪神が圧倒的な勢いで白星を積み重ね、前半戦で優勝マジックを点灯させるも、後半戦は一転して失速し、結局怒涛の追い上げを見せた巨人が大逆転で優勝を決めたこともあり、上位2球団が強すぎた(両球団とも、最終成績は80勝以上を挙げた)と見ることも出来ますが、それでも横浜はあまりに勝てなさすぎました。
チームがここまで沈んだ原因は投手陣にあり、エース三浦大輔をはじめ新人のマイク・ウッド、小林太志などがことごとく負け越し、チーム防御率は4点台を叩きだしました。

2008年のセ・リーグの順位、貯金の推移
画像:FC2

佐藤常務の暴走と翻弄される大矢監督

監督時代の大矢明彦氏
画像:KYODO NEWS IMAGES

若林オーナーの就任と同時に常務となり、山中専務の左遷により球団を掌握した佐藤常務は、大矢監督はじめ現場の人間に対して嫌がらせとしか言えないような人事を敢行することがありました。まず、先述の通り常務とオーナーは直接の繋がりがあり、その間の人間をすべて飛び越している状況です。そのため現場では新たに獲得する選手がどんな選手なのか、どのような指針でチーム作りをすればいいかの戦術が立てられなくなってしまいます。さらに2009年に入ると、フロントは大矢監督が最も信頼を置いているコーチを、別な仕事をしてもらうからと現場から外します。すでに大矢監督にとっては絶望的な状況ですが、これに加えて大矢監督本人に対して「交流戦までに借金が10に達したら解任」すると通告しました。
ただでさえチーム状態が悪い中、主砲の村田修一選手はWBCに派遣されチームを離脱していたこともあり、当然のように開幕から6連敗、その後も負けを重ねて監督解任、という流れとなってしまいます。これが2009年前半戦のことで、大矢監督の後任には二軍監督を務めていた田代富雄氏を抜擢し、チームの立て直しを図りました。
ちなみに、このような環境に振り回されることとなった大矢監督はファンの怒りを矢面に受けることとなり、次第にノイローゼ気味となってしまいます。試合中のベンチでは壁に向かって話しかける姿もあったと言われるほどでした。

大矢監督の代行として監督となった田代富雄氏
画像:Wikipedia

田代監督は、まだ本拠地が川崎にあった大洋ホエールズ時代の1973年に入団。三塁が本職の内野手で、クリーンアップで活躍したスラッガーでした。以降引退まで大洋一筋を貫いた生え抜き選手です。引退後は二軍を中心に打撃コーチを務め、親会社がTBSとなって以降は一軍コーチを務めることもしばしばありました。そして2009年、大矢監督の無期限休養に伴い、代行ではありますが満を持して一軍監督の座につくこととなりました。チームの立て直しが期待されましたが、既に負け癖が染み付いたチームを立て直すことは容易ではなく、2年続けて最下位に終わります。最終成績は51勝93敗と、前年に続き90敗を喫することとなりました。余程熱心なベイスターズファンでない限り、このシーズンは記憶に残らなかったかもしれません。田代監督は長いことコーチを務めていたこともあり、選手たちから慕われていました。そのため2009年シーズン終了後、選手たちは「来季も田代監督を続投してほしい」と球団に要望を出します。球団側もその要望を認め、
加地球団社長も来季の続投を発表します。ところがそれから程なくして、横浜来季監督に尾花高夫氏就任と見出しが打たれます。この人選はオーナーと常務の強いプッシュがあったとされ、球団社長をも通さない人事だったため現場は大混乱となります。結局田代監督は、翌2010年から再び二軍監督としてチームには残ることとなりました。

尾花監督就任、そしてTBS時代の終焉

2010年から指揮を執る尾花高夫氏
画像:Wikipedia

現役時代をヤクルトで過ごしてきた尾花監督は、詳細で緻密なデータに基づき、物事を論理的に考える人間です。指導者の立場になると、その性格が遺憾無く発揮され、能力を買われてこれまで数多くの球団を指導者として渡り歩いてきた経歴がありました。実際、尾花監督がコーチとして所属していたダイエーや巨人などは、その時期に優勝や日本一を果たしています。
この頃になると、ようやくTBSも事の重大さを理解したのか、尾花監督の招聘にあたっては若林オーナーが直々に出向いて巨人と交渉したといいます。シーズンに入ると、尾花監督は4番の村田修一選手に「一塁まで全力疾走してほしい」と伝えます。村田選手は「僕が全力疾走したらチームは変わるのか」と聞き、尾花監督は「変わる」と断言します。しかし村田選手が全力疾走を見せるのは翌年になってからでした。チーム成績も、5月まではリーグ4位と持ちこたえるも徐々に失速し。最終的には48勝95敗1分で3年連続の最下位となり、さらにはプロ野球史上初となる3年連続シーズン90敗という不名誉なおまけまでつくこととなります。
シーズン終了後には、現在のLIXILである住生活グループへの球団売却がささやかれるようになります。しかし住生活グループ側が条件として「横浜を出て、新たな地でゼロからやりたい」と提示したことで交渉が破断し、翌2011年シーズンもTBSが親会社を務めることとなりました。この頃にはTBSはファンから、本社の所在地とかけて「赤坂の悪魔」と呼ばれるほど嫌われることとなりますが、チームを横浜の地に残してくれたこの身売り拒否は英断だったと強く感じます。翌2011年シーズンは、開幕前に3番の内川聖一選手がFAでソフトバンクに移籍します。

内川聖一選手
画像:週刊ベースボールONLINE

テレビ番組に出演した内川選手は自身の移籍について触れ、「横浜を出る喜び」の名言を残しました。この名言は現在でも語り継がれ、2022年オフに中日から横浜DeNAに移籍した京田陽太選手について「中日を出る喜び」や「横浜に入る喜び」、MLBで活躍する大谷翔平選手が、2023年オフにエンゼルスからドジャースに移籍したことから「エンゼルスを出る喜び」などの派生も生まれています。このように、主力が抜けたベイスターズは下馬評通り黒星を積み重ね、最終的に47勝86敗11分の最下位に終わります。この年は東日本大震災が起こった年であり、原発事故の影響から節電要請が出されていた関係で、「試合開始から3時間30分を超えて9回を超える新しいイニングに入らない」というルールがありました。そのため、他のシーズンと比べて引き分け数が大幅に増加したのですが、ベイスターズはこのルールがなければ4年連続90敗も有り得たと言われるほど負け続けました。シーズン終了後には、DeNAへの球団売却交渉が行われます。前年の住生活グループとは違い、DeNAは球団を横浜に残すことを確約するなど、条件面で折り合いがついたことにより、ついに2011年12月1日付けで球団親会社が交代。新たに横浜DeNAベイスターズとして再出発していくこととなります。TBSとDeNAによる球団引き渡しの席では、TBS側の1人の人物が「我々と同じ失敗を繰り返さないで」と発言したといいます。
このようにして、TBSが親会社だった時代はチームが崩壊していたことがわかります。チームはIT企業として成長を続けるDeNAに売却され、ここから新監督の元で暗黒時代からの脱却をめざして戦っていきます。DeNAが親会社のなってからの軌跡は次回以降でまた書きたいと思います。それでは、長くなりましたが今回も最後まで読んでいただきありがとうございました。また次回お会いしましょう!

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