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横浜ベイスターズ暗黒史(DeNA時代編)

2024年シーズンも8月に入り、徐々に優勝戦線が見えてきています。パ・リーグではソフトバンクが独走し、早々にマジックを点灯させた一方、セ・リーグは未だに混戦模様が続いています。現在首位の広島の6年ぶりの優勝が期待されるなど、今年のプロ野球も話題には事欠きません。そんな折に今回はベイスターズ暗黒史の最後、DeNAがフロントの時代について語っていきます。

ついに実現した球団売却

親会社交代により誕生した新球団ロゴ
画像:横浜DeNAベイスターズ

ベイスターズの親会社は2002年からテレビ局のTBSが務めてきました。しかし、これまでの記事で書いてきた通り球団経営のメリットもやる気もないTBSのフロントは、球団を保有する親会社とは思えないような人事や方向性の見えない選手補強を繰り返し現場の士気を下げ続けてきました。その結果、ベイスターズは最下位が定位置の弱小チームに成り下がり、TBSが親会社だった10年間で実に8回もの最下位を記録したのです。こうなるとチーム成績に比例するように球団の価値も下がっていき、ベイスターズは年間20億円もの赤字を垂れ流すようになります。TBSにとってもこの赤字額は決して小さいものではなく、2010年頃から球団の身売りが現実味を帯びるようになっていました。一時は住生活グループ、現在のLIXILが球団売却先として交渉が進みますが、条件面で折り合わず破談。それから1年後の2011年オフに球団売却先として名前が上がった会社こそが、DeNAだったのです。

横浜モバゲーベイスターズ

DeNAはスマートフォン向けのゲームやサービスなどを手がけるIT企業で、当時は社名よりもサービス名である「mobage(モバゲー)」で広く知られていました。DeNA側も「球団名にはモバゲーの名前を入れたい」という意向があり、一部のプロ野球ファンの間では「横浜モバゲーベイスターズ」が誕生するのでは?という声が上がりました。さらに、このことについて報道陣から質問を受けた読売ジャイアンツの渡邉恒雄会長はことある事にモバゲーということが出来ず、「モ、モグ、モガべーか?」という迷言が飛び出すことになります。
最終的に新球団名は会社の名前をそのまま使うことになり、「横浜DeNAベイスターズ」に決定。モバゲーベイスターズは杞憂に終わりました。

新監督就任

DeNA初代監督の中畑清氏
画像:野球バカ.com

新生横浜DeNAベイスターズを盛り立てていくため、チームを鼓舞する新たな監督を招聘することとなります。話し合いは球団社長の池田純氏、巨人OBで新たにGMに就任した高田繁氏、当時のオーナーだった春田真氏の3名で行われ、集客力や情報発信力などで候補を絞り込んでいきました。
最初は横浜のOBでもあり、後にソフトバンク黄金期を作り上げることとなる工藤公康氏にオファーを出すのですが、コーチなどの人事を自分で選びたい工藤氏と監督に全権限を渡したくない球団とで意見が対立し、話は平行線になります。結局工藤氏との交渉は破談に終わるのですが、高田GMは同じく巨人OBで普段から付き合いもあった中畑清氏にもオファーを出すべく、現在の気持ちや状況を抜かりなく聞くなどしていました。そのため高田GMは工藤氏との交渉が破談になると、すぐに中畑氏に監督就任オファーを出し、中畑氏もこれを受け入れたのです。球団売却の大筋合意がなされてからわずか40日というスピードでしたが、晴れてここに中畑清監督が誕生し、横浜DeNAベイスターズとしてのシーズンが幕を開けます。

どん底のチームと中畑監督の奮闘

暗黒時代の象徴として知られる、
ベンチでうなだれる
内川聖一選手と村田修一選手
画像:スポニチ

新体制のもと2012年のシーズンが始まりますが、初日から中畑監督の怒号が響き渡ります。中畑監督がチームメイトに最初に出した指示は「俺がおはようって挨拶したらおはようって返せ」でした。当時のチームは挨拶もまともに出来ないほどに組織が腐りきっていたのです。さらに中畑監督は「ふざけた髪型をしている選手は試合に出さない」と、髪型などに関しても徹底的に叩き直しを図り、チームの意識改革を目指します。残念ながらチームの成績はなかなか上向かず、46勝85敗13分と5年連続の最下位でシーズンを終えます。数字だけ見ればTBS時代と変わらない成績に思えますが、中畑監督の指導の甲斐あって選手たちの意識には大きな変化が起こっていました。
続く2013年、シーズン前に中日からソト(2023年までDeNAに在籍したネフタリ・ソトとは別人)、ソーサ、ブランコの外国人3人を補強。選手たちも挨拶くらいは出来るようになり、目に見えて変化が起きたシーズンでした。8年ぶりのAクラス、そして球団初のCS出場を目指すこの年は、ただ負けていただけのTBS時代とは違い、勝利のために諦めずに戦う姿が見えるようになりました。最終的には8年連続のBクラスに終わりますが、最終成績は5位と、6年ぶりの最下位脱出に成功します。翌2014年には井納、山口、三浦の3投手が月間MVPを獲得するなど大きな飛躍を遂げ、初のCS出場も視野に入ったものの、最終盤に失速し2年連続の5位に終わります。中畑監督のもとでチームは徐々に力をつけ、翌2015年の戦いぶりに期待が集まります。

山崎康晃選手
画像:Wikipedia

そして迎えた2015年、序盤から投打が噛み合い、ルーキー山崎康晃が新人としてNPB記録となる月間10セーブを達成。貯金を積み重ね、ついに4月9日、ベイスターズは2007年以来2898日ぶりとなる単独首位に浮上。5月も首位を維持したまま駆け抜けるなど今までにない強さを見せます。交流戦に突入すると一転して失速し、3勝14敗、勝率.176と歴代最低の勝率を記録したものの、優勝した98年以来となる前半戦首位ターンを決めました。歴史的ダンゴ状態で混戦を極める中、17年ぶりの優勝が期待されたベイスターズでしたが、後半戦に入ると急失速し、あれよあれよと順位を下げていきます。最終的に62勝80敗1分で3年ぶりの最下位に沈みました。
シーズンの結果は最下位に終わりましたが、就任してからの4年間でチームを劇的に建て直した中畑監督。ファンや球団フロントは翌シーズン以降も続投を望んでいましたが、中畑監督は最下位に終わった責任、そして本人が熱望したデーブ大久保氏のコーチ入閣をフロントに拒否されたことで、2015年シーズンをもってのベイスターズ監督退任を決意しました。
意識改革によって、泥沼だったベイスターズを戦える集団に変え、そして山崎康晃選手、筒香嘉智選手といった次世代を担う選手たちを見事に育て上げた中畑監督の4年間の戦いが終わり、チームは新たな時代へ突入していきます。そしてチームと同時に、本拠地にも大きな変革がもたらされようとしていました。

横浜スタジアム問題

ベイスターズが長年本拠地としている
横浜スタジアム
(横浜市中区)
画像:カナロコ

横浜スタジアムは1978年に、川崎から移転してくる大洋ホエールズのために横浜市によって作られました。ベイスターズはまだ球団名がホエールズだった時代から長くスタジアムを使ってきましたが、使用料は決して安いものではなかったため、ベイスターズは長いことスタジアム使用料に悩んできました。さらに球場内の売店や飲食店の収益も球団側には入らない構造であり、近年話題となった札幌ドームに近い運営状況でした。
2012年にDeNAが球団の親会社となり、積極的な球団運営に乗り出すようになると、長年赤字の原因となっていた横浜スタジアムとの関係が明るみになりました。DeNAと球団は赤字解消のため、スタジアムの完全子会社化を目指すこととなります。
スタジアム買収に向けては、横浜スタジアムを保有する個人株主に集まってもらい、池田純球団社長が直々に出向いて交渉を行いました。最初のうちはDeNAという新興企業への信用不足や、TBSフロント時代の惨状もあり株主たちからは野次や怒号が飛び交うほどの場になりますが、諦めず何度も交渉を行う池田社長やDeNAフロントの姿勢を見て、株主たちの態度も軟化していきます。
そして2015年シーズンにはチームは8年ぶりの単独首位を記録し、前半戦を首位で折り返すなどの躍進で、スタジアムは連日満員の大盛況となります。結果は最下位に終わったものの、このシーズンの横浜スタジアムのチケットは飛ぶように売れ、観客動員も急激な上昇となりました。これほどの飛躍を遂げながら球団経営は赤字のままという事実に株主たちは衝撃を受けました。今のままでは球団経営が立ち行かなくなり、チームはいずれ横浜を去ることになる、という池田社長の訴えを株主たちは理解し、いつしかチームとスタジアムをDeNAに任せた方がいいという声が大きくなります。そして2016年1月、ついに悲願のスタジアム買収が実現したのでした。

暗黒時代の終わり

中畑監督の跡を継いだアレックス・ラミレス監督
画像:Number

ラミレス監督が就任し、新体制で迎えた2016年シーズンでしたが、チームは開幕から出遅れます。開幕から4カードを連続で負け越し、5月3日には最大の借金11を記録するなど低迷します。ところが翌5月4日からは一転して白星が先行し、急激に勝ちを重ねます。今まで伝統的に力不足だった投手陣が粘りを見せ、投手陣で試合を作って逃げ切るようになります。5月21日からは6連勝を記録し、その後は勝ち負けを繰り返すようになります。8月に入るとやや失速し、4位阪神に攻め寄られますが、最後まで3位を守り抜き、借金2ながら11年ぶりのAクラス、そして初めてのCS進出を決めたのです。CSはファーストステージで2位巨人との対戦となります。2007年のCS開始から出場し続けている常連の巨人と、初出場のベイスターズという、巨人有利と思われたカードでしたが、結果はベイスターズが2勝1敗でファイナルステージに進出します。ファイナルステージではこのシーズン独走で優勝を決めた広島との対戦となりましたが、3戦目を3-0で勝利したものの他の試合を全て落とし敗戦。結果的に日本シリーズ進出は逃したものの、短期決戦の戦いを経験したことはチームにとって大きな強みとなりました。
翌2017年、ベイスターズは早い段階から優勝争いに加わります。前半戦は混戦模様のセ・リーグでしたが、徐々に広島、阪神、巨人が抜け出します。この時点でベイスターズは4位につけていましたが、5月25日から巨人が球団ワーストの13連敗と大崩れしたことで入れ替わりでベイスターズが3位に浮上。その後のベイスターズは着実に貯金を積み重ね、後半には復調した巨人に追い越され、一度は4位に転落しますが、最後は巨人を振り切って貯金8の3位と、2年連続のCS進出を決定させました。ポストシーズンに入ると、ラミレス監督は神がかり的な采配を連発します。CSファーストステージでは2位阪神と対戦し、甲子園での「泥試合」を2勝1敗で制すと、続く広島とのファイナルステージを4勝2敗で突破し、ついにベイスターズは1998年以来19年ぶりの日本シリーズに辿り着きます。

日本シリーズ進出が決定し、喜ぶ選手たち
画像:カナロコ


日本シリーズの対戦相手は驚異のシーズン94勝を挙げ、「短期決戦の鬼」工藤公康監督が率いる歴代最強とも称された福岡ソフトバンクホークスでした。福岡から始まったこのシリーズはソフトバンクが3連勝といきなり王手をかけられる展開となり、追い込まれたベイスターズでしたが、横浜での試合となった4戦目はルーキー濱口投手の力投で6-0で勝利すると、翌5戦目も制し、2勝3敗と勢いに乗り始めます。福岡に戻った6戦目も8回まで3-2とリードし、クローザー山崎康晃投手にバトンタッチしますが、この展開で打席に入った、かつての横浜の主力だった内川選手からホームランを浴び、3-3の同点に並ばれます。最後は延長11回に川島慶三選手のサヨナラタイムリーでソフトバンクが勝利し、ベイスターズは19年ぶりの日本一を飾ることは出来ませんでしたが、このシーズンを通してベイスターズの暗黒時代は完全に払拭されることとなりました。

ソフトバンクが延長戦で勝ち越し、勝利が決定した瞬間
画像:カナロコ

その後のベイスターズ

2017年に激闘を演じたベイスターズでしたが、翌2018年は4位に終わったものの2019年にはシーズン2位を記録するなど、着実に力を付けています。コロナ禍で助っ人の合流が遅れたことが影響した2021年は6年ぶりの最下位に終わりますが、ここ数年は安定した成績を残しています。
そして現在のベイスターズはラミレス監督からバトンを受け取ったかつてのエース三浦大輔氏が監督を務めています。
今年は前年力投したエース今永投手とバウアー投手、そしてソト選手が揃って抜け、戦いぶりが心配されていましたが、現在3位とは2ゲーム差の4位と比較的健闘しています。まだまだCS進出の可能性は残されているので、今後とも応援していきましょう。それでは、マルハ時代から書き綴った暗黒史は以上になります。最後まで読んでいただきありがとうございました!

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