はしりがき わたしは共感能力が低い

昔から、何かコト起きるたびにウッスラ感じつつ、目を背けてきたこと。私はどうやら人より共感能力が低い。
わたしは20代後半なので、生きてきた中で衝撃的なニュースを目にする機会がそれなりにあった(哀しき世の中)。で、毎度それなりに落ち込む。でも「それなり」止まりなのである。どのケースを取っても、周囲の友人達にはかなりショックを受けているいる子も多く、結果的にわたしも先生や親から「大丈夫?ショック受けすぎてない?」的なお声がけをいただき、あんまりショックを受けていないこと(時には何にショックを受けるべきかをあまりつかめていないこと)に罪悪感を覚え、ショックを受けたふりをしたり、「きちんと」ショックを受けている子を羨んだり、そんな自分自身を軽蔑したり。そんな風に過ごしてきた記憶がある。比べること自体おかしいんだけどさ、当時は結構切実だったと思う。

一番忘れられないなあ、と思っているのは、高校時代に平和学習の一環で広島を訪れたときのこと。私たちは多分に漏れず平和記念資料館へ行った。いつも通り、無意識ながらも「ショックを受けられなかったらどうしよう」「抱くべき感想を抱かなかったらどうしよう」と不安を覚えていたわたしに、たまたま救いの手(と言っていいかわからないけど)が訪れたのである。
当時まあまあ仲が良かったクラスのAちゃんが「わたし、一度来たことがあるんだけど、受け止めすぎちゃって多分ダメだからサッと回る」と言っていたのである。わたしは理由も含めてAちゃんに乗っかり、あまりきちんと展示を見ないでサッと見て回って資料館を出た。正直に言って展示内容を一つも覚えていない。最低である。本当に最低だった。でも当時のわたしはとにかく、「きちんと見た結果、他の子のようにショックを受けることができない自分が周囲にバレる」ということが何よりも怖かったのである。

今やわたしも大人なので、そこまで「共感能力が低いこと」に苦しめられることもないというか、見方によってはある種の強みとも言えなくもないし、「ショックを受けるという面とは別に、自分の信念・思いを達成するための知識として、自分の損得に関わる判断材料として」色んな物事を見るという割り切りができるようになったな、とは思っている(だからまた広島行かないとな、と思う)。けれど同時に、SNSをやっていると(ツイ廃なのがいけないんだけど笑)、やっぱり何かお気持ちを表明しないと、、!という気持ちにさせられることも多々ある。学生さんとかは尚更だろうな、と思う。(わたしが学生の時に、今ほどSNSが盛んじゃなくて良かったな、と心から思う)

時折、「SNSで何も言わないことは何も感じていないということの意思表示ではないよ」という励まし(?)を見ることがある。けれど、そもそも共感できていない、あまり思いを持っていないことも同時に罪ではない、と発信してくれる人はあまりにも少ないんじゃないか、と共感能力が低い私は思ったりする。甘えと言われればそれまでだけど。

深く共感できない(あるいは時間がかかる、対照が限られる)ことと、自分が賛同できないものにNoということ、信じるものを支えていくこと。全て両立するんだけどな、とわたしも30年弱生きてようやく割り切れるようになったのですが、この考えがもっと受け入れられるようになるといいな、とおもう。共感することが苦手なことと、何も考えていない、なんの思いも持っていないことはイコールじゃないよって。学生時代のわたしみたいな悩みを抱いたり間違いを犯す人が減ればいい、とそっと思ってみたりする。
人間の特徴、違いはあっても善悪はない、自分に対しても、他人に対しても、なるべく覚えていよう、という覚書。


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