佐藤滋とうさぎストライプ『熱海殺人事件』の感想
2021年3月18日、こまばアゴラ劇場でのうさぎストライプ『熱海殺人事件』を観劇。例によって感想をメモに残します。
『熱海殺人事件』は昔からいろんな団体、演出、俳優のものを観ている。かぶきどころも踵の返しも随所に埋め込まれた戯曲で、きっと作り手側からしても舞台のメリハリもつけやすく俳優が持つ華も解き放ち絞り出しやすいのだと思う。実際のところそれにのっかり俳優達がパワーを絞り出し舞台が高まる姿を何回も目の当たりにした。逆にどんなにバイアスをかけられていてもそれで壊れたのを観たことがない。
戯曲からそのような演出へと作り手を蠱惑する蜜が滴って、それらがこの戯曲を演じる伝統へと粘り固まり、それ故に俳優もさらに踏ん張り、歌舞伎にあるようなここ一番で見栄を切るための台を黒子が運び入れてくるがごとき段取りのあざとさすら美学となし、歪み滅失する解像度すら火にくべられて勢いや強さの輝きに変わる中、体を張り熱をおこす俳優の汗が舞台にグルーブ感を醸し、観る側を巻き込み凌駕した舞台の記憶として刻まれる。実際のところそうした舞台を新たに観終わるたびに私の内にも高揚が居座り、『熱海殺人事件』に対するイメージとなり積もっていた。
それらの舞台においても、多分この戯曲に紡ぎこまれていた作意も受け取ることは出来ていたのだと思う。いろんなコンプレックスや見栄やその向こうに浮かぶ行き場のなさや理不尽を戯曲はしっかりと観る側に渡していた。だからこそ感じる高揚の質量であり重さだったのだと思う。ただそれらは、舞台のメリハリに紛れ、観る側の無意識に押し込まれていた。
さて、うさぎストライプ版の『熱海殺人事件』である。もちろん筋立て通りに戯曲が舞台に編まれていく。俳優のメイクや衣装にも工夫やバイアスのかけ方があるのだが、始まって暫くは舞台がやや淡白に感じられた。しかしシーンが進むにつれて、これまでに感じたことのなかったひとつずつの台詞や所作からに内包されている切っ先がすこじずつその姿を現す。俳優には戯曲に寄り添ったであろう要所の部分での見栄の切り方があるのだけれど、それがスポットライトに照らされてぐいぐい押してくるのではなく、丁寧にひとつずつの台詞を語り観る側に渡すような感じがあって。これまでに観た『熱海殺人事件』のように勢いやここ一番の強さで観る側を巻き込むのではなく、その風景を形作る刹那の一歩ずつの歩みに観る側を導く自然体があって取り込まれていく。それにはかつて観たような、この作品に定番の滲みがまったくない。戯曲の構造が淡々としっかりと磨かれ機能していく。そしてこれまでに観た『熱海殺人事件』では体験したことのない、4K品質の解像度に編まれた刹那となり、顛末にふくらんでいく。
観ていて、なにを今更という話もあるのだが、『熱海殺人事件』というのはそもそも戯曲がおもしろいのだと、もっと正確にいえば俳優がテンションに塗り込められず一つずつの言葉に足を着けて演じる『熱海殺人事件』には新たなおもしろさがあるのだと思った。俳優達ひとりずつにさりげなく確かにその歩みを作る熟達を感じ、これまでになかった戯曲の肌触りを導き出す演出のセンスにも舌を巻く。
たぶん、この戯曲が編まれた頃に人々が心の内に抱えていたものとそれを演じる今では、重ねようにも重ならない時代の品質の違いみたいなものがあって、その中で人が普遍的にいだく感情を今の時代のものとして染めるには、これまでのようなやり方ではなく、今回の語り口の方が適しているように思えた。
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佐藤滋とうさぎストライプ
『熱海殺人事件』
2021年3月10日[水] - 3月21日[日]
@こまばアゴラ劇場
作:つかこうへい 演出:大池容子
出演 :
佐藤滋(青年団) 実近順次 高畑こと美 木村巴秋(青年団)
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