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アマアドリ『生きてる風』の感想メモ

2021年3月21日昼にシアター風姿花伝で観たアマヤドリ『生きてる風』の観劇感想メモです。

この文章にはネタバレがあります。観劇予定をお持ちの方は観劇後にお読み頂ければと存じます。

開演前から上手奥、この劇場の特徴である階段をうまく利用してひとりの女性が板についている。布団に潜り込んでゲームかなにかをやっているよう。開演となりひとりの男が現れる。もうひとり男が現れる。女性が現れる。やがて姉弟を伴った男、2番目の男の弟もやってくる。彼らはなにかを待っている。それはゴドー待ちのような風景にも思えて。
引きこもりの状態からぱーっと抜け出せる薬が配られるという。実際派手ないでたちの男も現れる。彼と面識のあるらしい女性もあらわれる。やがて、それぞれの事情、時に家族との確執であったり、自分との対峙であったりもするひとつずつ異なったひきこもりの様相が解かれる先で、ぱーっと救うことの表層のありようとその薄っぺらさ、あるいは実直に手を差し伸べることの限界も次第に明らかになる。男優には表層がその場所に現れた人々を惹きつける力も軽質さも危うさも空気の揺らぎのように織り上げる卓越した演技の切れがあり、女優には想いと自らの力や役割の狭間にあることの諦観を滲ませる演技の懐があって。そこにある人々の今を引き出し際立たせる。
それは、いわゆる「引きこもり」といわれる人とその周りの状況に対する現実の写し絵のようにも思える。舞台の歩みは観る側の現実認識の歩みとなる。このことは折りに触れて様々なメディアでも取り上げられているし、沢山の考え方や対処法や意見も聞く。彼らの存在も彼らの現状を打破するために地道に活動している多くの方々がいらっしゃることも知識として持ち合わせている。そうはいっても、丸められ棚にしまわれたその知識、俳優たちのロールの編み方や人物の息づかいの作り方や血の通わせ方に彼らが感じる理不尽さや閉塞を紡ぎ込まれ、表層の風景は初めて彼らの日々を生きる姿への実存感へと翻る。彼ら一人一人の抱く心情に染められる。

でもねぇ、そこまで受け取っても、それはまだ引きこもる彼らの実感ではなかった。
街には朝が来る。人々が動き出しその喧騒が舞台に満ちる。その音、日々の暮らしのなかに当たり前に聞こえるその音たちが、登場人物の感覚に染められた心情にどのように響くかを体感したとき、もやもやが崩れ、違和感や不快感、歪み、逃れられなさ、痛み、それらが渾然となって訪れ、息を呑み、耐え、その中で彼らが抱くものを少しだけでもあからさまに受け取った気がした。それは救済とか努力とかの概念とは全く別な次元の、心の深層を締め上げるような言葉にしえない想像もできない感覚だった。
振り返ってそれを観る側に導いた俳優達の人物を描き解く一瞬ごとの確かさにも、そこに至るまでのひとつずつのシーンの多くの研がれ方にも思い当たる。舞台のひきこもる人々の中でこの感覚を抱かなかったのはきっとただ一人、開演前からそこにあり、粛々と引きこもりつづけ、朝までゲームをやり続けていた女性だけ。献身的に観る側の無意識に存在感を編み続け、場の時間を観る側につなぎ止めていた彼女の台詞達が、最後に「ひきこもる」ことの実像を渡してくれる。そしてそのことが、ひきこもりからぬけだそうとし、抗い、抜け出せ得ない人々の静かで激しい足掻きを更に照らし出していた。

観終わって、舞台は、今を作演の感性や洞察というレンズを通し舞台空間に写し取った精緻な写真のようにも思える。観る側の感覚にその像を結ぶ演劇という表現の力を改めて実感した。
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アマヤドリ『生きてる風』
2021年3月18日(木)~28日(日) @シアター風姿花伝
作・演出 :
広田淳一
出演 :
榊菜津美/沼田星麻/大塚由祈子(以上、アマヤドリ)
西川康太郎(ゲキバカ/おしゃれ紳士)/徳倉マドカ/宮川飛鳥/ばばゆりな/河原翔太/松下仁




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