「はじまりは蝶」3話

「もうちょっとで夏休みだから、ちゃんと計画的に荷物は持ち帰ってくださいね。じゃないと、最終日に持ち帰り切れなくなりますから」
 宇佐美先生が、帰りの支度中の僕らに声を掛けた。僕は、溜まりに溜まったミニテストのプリントとか、置き勉した教科書を青バッグにつめた。すごくパンパンだ。
一人称を「俺」とは不思議と言わなくなっていた。だって、もうかっこよさを取り繕うための人がいなくなってしまったんだもの。
 気分が悪くなって倒れたあの日の後、起きたら家のベッドの上という、今世紀最大の謎を迎えながら僕は目を覚ました。意識を失う前の、悲しくてどうしようもない気持ちは少しだけ薄れた。まだ心臓はちくちく痛んだけど、気づかないふりをした。今は、なぜ家に帰って来られたかを知るほうが最重要だった。僕は、確かに『とどのつまり』にいたはずだったんだ。
 倒れたまま自分の足で帰ってきたとは思えないし、やっぱり家にいるのはおかしいもんだから、「僕どうやって帰ってきてた?」って、お母さんに聞いたんだ。そしたら、「お母さんがパートから帰ってきたときには家にいたみたいだけど。なーに香、新しいなぞなぞなのそれ?」とかどうとか、とんちんかんなことを言ったんだな。んでもって、「『俺』っていうのはやめたの?」って言われたもんだから、僕は途端に恥ずかしくなって、そのまま階段を駆け上がった。
 自分の部屋に閉じこもって考えた。もしかしたらあれは、全部夢だったのかもしれない。僕は不思議とそう思えてきて、悲しさも掠れていった。だからその時はもう眠ることにしたんだ。明日は夢碧さんに会って、嘘か本当か見極めようと思って。でも、夢碧さんは結局学校に来なかった。次の日も、その次の日も。だから、やっぱり夢じゃなかったんだってわかったし、夢碧さんに振られたんだってことも理解した。悲しかったな。
美沙に夢碧さんのことを聞きたかったんだけど、あいつも夢緑さんと同じタイミングで学校に来なくなったんだ。あいつ、多分夢碧さんのとこにいるのかもしんない。夢碧さんのことは、惨めな気分だし酷いなって思ったけど、もういいやって僕は思うことにした。そうしないとやってられなかった。けど、そう思えば思うほど、ますます僕は惨めな気持ちになった。夢碧さんは、僕のことを好きじゃなかった。それだけのことなのに。 
 僕はしんみりした気分になりながら、もはや変形で青バッグと呼べない代物を引き下げて家に向かう。ほんとのところ、中学校初めての夏休みになったら、夢碧さんと遊びに行きたいなって思っていた。磯で綺麗な貝殻を集めたりできたら楽しいだろうな、なんてさ。波が打ち寄せる砂浜を走りながら、追いかけっこするのもロマンがある。僕は、実はロマンチストなのだ。
ふーと息をつく。辺りからは、はち切れんばかりのアブラゼミの鳴き声が響いている。セミっていうやつが僕は好きだ。あの声がすると、夏がやってきたんだとわくわくする。あんなに小さい体から、もの凄い声量で鳴くんだもの。前に、セミは一週間しか生きられないと聞いたことがあったんだけど、何年も暗い土の下で眠っていたのにそれは無いんじゃないかと僕は少しかわいそうになったな。だからこそ、あんなに一生懸命に声を張るのかもしれない。   
 木にセミの抜け殻が付いているのを見つけてぐんとテンションが上がってしまったけれど、僕は気分が晴れないのを引きずる事に決定して、もう一度ため息をついた。
 僕の部屋には、セミの抜け殻を入れてある透明の丸いケースが沢山あって、ためにそれを眺めるんだ。つまんでちょいちょいと指で触って、カサカサ音を鳴らすのも好きなんだ。あんなに小さい殻からセミが出てくるんだもの、感心しちゃうよな。
 僕は気分を下げることに決めたからね、いつもの道草もやめようと思った。頭に日差しが吸収されてる感じがする。これからもっとずっと熱くなるだろうなぁと僕は思った。頬に流れた汗を、僕は手で拭った。
 
「ただいまー」
 鍵を開けて玄関に入ると、リビングから母さんが顔を出した。
「あらおかえりなさい、香」
「今日は一段とすごい荷物ね、それ」
「うん、すんごく重いよ」
 と言いながら、僕はすぐ脇の階段を二段飛ばしで上っていった。これはね、修行だと思っていつもやってるんだ。前に一段飛ばしで上ったときは、始めこそ母さんに褒められたけど、次には「あまり無理するのはやめなさい」と言われたんだ。だから余計にむきになった。やめなさいって言われることは、大抵かっこいいんだ。
リズムよく上ると部屋のドアを開けて、流れるよう閉めようとした。
「帰ってきたのか坊主」
「うぁああああっ」
 振り向きざま、僕はカバンを放り投げて飛び上がった。放り投げたバッグは、重いもんだからほとんど飛ばないで音を立てて落ちた。なんとそこにいたのは、フランクさんだったのだ。 
あの時と少し違うのは、髪の毛が前以上にテカテカに撫でつけられていて、綺麗な黒スーツをしっかりと着こなしているってことだ。これが普段の仕事スタイルなんだろう。目つき以外はガラの悪い要素が薄れている。
「フ、フランクさん。どうして僕の部屋にいるんですか?!」
「いやそれがだな」
フランクさんは、少し視線を逸らした。
「香? なんなの急に大きな声出して」
 中途半端に開けっ放しにしてあったドアから、母さんが階段の下で声を上げたのが漏れ聞こえた。
「あーっ、とね」
 フランクさんをチラチラ確認しながら、母さんにどう言っていいかわからなくて、もごもご口ごもった。母さんはいつフランクさんを僕の部屋に上げたんだろう。
「もう何?」
 呆れた声を出しながら、母さんが上がってくる音がする。母さん、僕が帰ってきたときにお客さんが来たってくらい、言ってくれてもいいのに。 
そこで僕は気が付いた。フランクさんの前には、お茶も何一つ出された様子はない。お客さんが来た時に出す、ジュールとかを乗っけるちっちゃな机も出されてないんだ。フランクさんは、ただドアの前に立ってただけだ。音が近づいてくる。僕は物凄く頭をフル回転させて、一つの仮説を導いた。
「あの~フランクさん。どちらから入りましたかね」
「窓からだ」
俺は勢いよくドアを閉めた。
 わぁお。不味い、非常に不味いことになった。
「何で勝手に入ってきたんですかっ」
 僕は、なるべく小さな声でフランクさんに言った。
「坊主の部屋の窓、たいていは空気の入れ替えでお母さまが開けてるだろう?」
 なんで知ってるんだこの人は。いやいや、そんなことより。
「どうして普通に玄関から来てくれないんです?」
「だって、そんときゃどう俺を説明すればいいんだ?」
 ムムム。確かに、こんな見るからに怪しい巨体の男が家にきたら、母さんはビビっちまう。でも、勝手に僕の部屋にフランクさんがいたら、間違いなく失神してしまうだろう。こっちの方がもっと悪い。
必死で忘れかけてたけど、この人は宇宙人なんだ。自分の部屋に宇宙人がいますなんて、言えるわけがない。あいにく、僕の部屋には高身長のフランクさんが隠れられそうな場所なんてなかった。ベッドの中に隠れても、バレてしまうだろう。縦長のタンスでもあれば良かったんだけどね。
 母さんにどうごまかすか、素早く頭の中で対策をシュミレーションをする。紹介するよ母さん、彼は友人でね……。いや年齢差がありすぎるっ。仮に友人だとして問題はその後なんだ。どこで出会ったのって言われて、『とどのつまり』でなんて言った日には、今度は違う部分で叱られそうだもの。それじゃあ、彼は新しい家庭教師になった……。いやいや元々僕に家庭教師いないしっ。なら、副担任の……。そもそも玄関から入ってない時点でおかしいんですけどね?! ああ、もうっ。
 
コンコン
 
「香? 大丈夫なの?」
 僕は素早くドアの隙間から顔を出した。
「アーカアサン。マッタクモッテダイジョウブサー。ハハハ」
グッジョブと親指を立てると、母さんの眉が訝しげに寄せられた。ええっと。
「もう何なのっ?」
「あ……」
 母さんのスーパーキックが炸裂し、ドアが思い切り開け放たれた。
 ノォオオオオオオオオオッ!
「お、お母さん。こ、これはだね」
 僕は、何もできないまま母さんを見つめた。終わった。
「もう、何にもなってないじゃない。本当に大丈夫なのね?」
「へっ?」
僕は後ろを振り返ったが、そこにいたフランクさんは、跡形もなく消え去っていた。
「あれれ?」
僕はキョロキョロと部屋を見回したけど、フランクさんのフの字も無かった。
「全くびっくりさせないでよね」
 「あの子はほんとに」とか何とか言いながら、母さんがまた階段を下りていく。僕は困惑しながらドアを閉めた。
「ちょい危なかったな」
 僕は本当にドキッとした。振り向くと、さっきと同じとことにフランクさんがいたからだ。
「おわっ! え、今どうやって隠れてました?」
 一体どんな魔法を使ったって言うんだろう? 改めてフランクさんは人間じゃないんだなと思った。
「そんなことよりもだな」
「そんなことじゃない!」
「頼むっ! お嬢様を助けてくれ」
 ええっ、そんな大の大人に土下座されても。
「顔を上げてくださいっ。急に言われてもよくわかんないです。何があったんですか?」
「お嬢様がっ、お嬢様が攫われたんだ」
「攫われた? まさかネルヴァルが……」
 頭の中に、化け物のニタニタした顔と、冷たい目を思い浮かんでしまい、体がぞわぞわした。
「ああー、違う。あいつはもうお前さんが倒したから、あの後ヨモヤマ星の軍に引き渡した」
 さくっと否定されて、僕は拍子抜けする。
「倒した? 僕が?」
「ありゃ見ものだったな」
それからフランクさんは、僕の華麗なる退治劇を語りだした。フランクさんによるとだな、僕の石頭でネルヴァルは一発ケーオーだったんだって。ネルヴァルはそれからしばらく目が覚めなかったらしい。なむさん。
そして、僕はフランクさんのお酒入りのチョコレートを食べて酔っていたことも知った。チェリーボンボンって言うらしいけど、かわいい名前のわりに恐ろしいやつだ、チェリーボンボンは。
「もう勝手に食べるんじゃないぞ」
「はい……」
 吐きそうな気分なんて二度とごめんだ。僕は、いくらおいしそうにしていても、二度と食べてやるものかと心に誓った。
「お嬢様が攫われたのは、俺とサドでネルヴァルを捕らえている、少し目を離した瞬間だった。僅差で間に合わなかった」
 フランクさんは悔しそうに拳を握った。一人、夢碧さんを見ていたタタンの泣き顔が目に浮かぶ。
「そこでだ、坊主に……」
「嫌です」
 手伝ってくれっていうんでしょ? フランクさんはびっくりしてこっちを見たけど、そんなの知らない。今までのしょんぼりしていた気持ちがウソみたいに、今度は怒りが湧いてきた。これ以上僕の惨めな気持ちを抉ろうって言うのか。
「ど、どうしてっ。お嬢様が攫われたんだぞ?!」
「僕はもう、フランクたちさんとは関係ないんです。そっちはそっちでやってください」
「お前さんってそんな性格だったか?」
「僕は今、猛烈に怒ってるんです。酷いですよ、色々黙って言ってくれなかったなんて」
「それは悪かった。だがあれはな、地球保護法第三十二条で定められていて」
「そんなのは良いんですっ」
 色々と難しいルールがあるっていうのは、何となく僕にだってわかってる。大人のジジョ―ってやつさ。けっ。仮に宇宙人だって突然言われたって、混乱するだけどね。それでもやっぱり悲しいんだな。のけ者にされてた気がしてね。これは僕のプライドなんだ。
「それに僕に頼まなくったっていいじゃないですか? 少しは今の僕の気持ちを考えて欲しいもんですよ。僕は夢碧さんに振られてお役御免、ショーシン中なんです」
「それは、まあ。そうかもしれないが」
 そうそう、わかってくれれば良いんだ。
「だが坊主しかいないんだ」
「なんで?!」
「なぜなら知り合いが坊主しかいないっ」
 ガクッ。そんな清々しく言わなくても。
「大好きだった夢碧さんに利用されたって知って、僕、傷ついたんです。別に怒ってはいませんよ。いや、ちょっとは怒ってますけど。それよか悲しい気持ちの方が強いです。でもあんなのってないですよ」
「それでもお前しか頼めないんだ。この土地の地理に詳しい地球人がいたほうが、こちらも助かる」
「それってフランクさんたちの勝手な都合じゃないですか。だから嫌です」
「何だと?」
「僕はフラれてて……」
自分で言ってて惨めな気持ちになってきた。
「夢碧さんに嫌われちゃってるんですよ? そんな人に助けられたって、ちっとも嬉しかないやいっ」
 僕は、また母さんが来ない程度に両手を振り上げて地団駄を踏んだ。その後に、語尾の言い方が良くなかったと思って、恥ずかしさにどうしようもなくなって宙でグーを何回も叩き下ろした。
「それでもだ」
僕の必死の訴えに、フランクさんはこれっぽっちも表情を変えてくんないんだよ。
「見てくださいこの顔を! これでも怒ってるんですよ」
 フランクさんにぐいっと顔を近づけた。母さんと喧嘩したときもね、本気で腹が立ってるっていうのに「変な顔」って笑われれて、全然怒ってるのが伝わんないんだ。こっちは必死こいて怒鳴ってるのにさ、ほんと頭にくるんだ。最終的には、なんで怒ってたのかもわかんなくなっちゃうんだよね。だからね、今までで一番怒ってる顔を特別に披露してやったのさ。僕はカンカンだってことをね。フランクさんは、僕の顔を見て何とも複雑そうな顔をしている。これはね、僕が怒ってることが伝わってないやつだよ。
「申し訳なく思ってるが、お嬢様はうちのポンコツ王子と結婚させなければならないんだ。な? わかってくれ。宇宙を救うと思って」
 宇宙を救うためだってさ、ケッ。なんでそんな、ポンコツ王子とくっつけるために、僕が出てかにゃならんのさ。敵に塩を送るような真似したかないね。
「嫌です」
 そんなこと聞いて、余計に協力なんてしてやるもんか。地球の平和だか宇宙平和だか知らないけど、ヒーロー気取りはまっぴらごめんだ。
「この通りだ」
「頭下げられたって嫌ですもん」
「そこをどーにか」
「イヤだ」
「ああもうっ、手伝ってくれって言ってるだろぉおおお」
「だから嫌って言ってるだろぉおおおおおおおっ」
 と叫んで、僕は部屋を飛び出し階段を駆け下りた。「ご近所に迷惑でしょ香っ」という、母さんのお叱りの声を聞きながら玄関のドアを開け放ち、僕はあても無く走り出した。振り返ると、フランクさんが窓から飛び降りて華麗な着地を決めたところだった。なんじゃありゃー! 僕はあっけに取られてスタートダッシュが遅れてしまった。
「まてぇええええええっ」
 もの凄い形相で、フランクさんが追いかけてくる。
「いやだぁあああああっ」
待てと言われて待つ奴なんていない。僕は恐怖を感じながら、何も考えずに住宅街を走り抜けた。こんなに僕って足が速かったんだな。遅刻するときとは比べ物にならないくらいのスピードだった。この調子じゃ今年の運動会は人気者になれるかもしれない、と一瞬そんな考えが頭を過ぎってニヤニヤしてしまう。けど、大人と子供じゃ速さは比べ物にならないから、あっという間にフランクさんが距離を詰めている気配を感じた。けたたましい足音が、後ろからプレッシャーをかけてくる。ちらっと見ると、フランクさんがすぐ後ろまで来ていた。フランクさんの鼻息と言ったら、頭の先にニンジンをつけられた馬どころの話ではないんだな。
このままだと捕まってしまう。そう思った僕は、急停車をして、振り向きざまフランクさんの後方を指刺して言い放った。
「あっ! あんなところにナイスバディのお姉さんがっ」
「何ぃいいいいいいいっ」
やった、引っかかったぞ。フランクさんは、「どこだっ、どこにいるんだ」と言いながら、あちこち見回している。もちろんそんなお姉さんは存在しない。『とどのつまり』でフランクさんは、ボッキュンボンなお姉さんたちの写真を、鼻の下伸ばして眺めてたこと、僕は知ってんだ。これは一か八かだったけど、まさかここまで食いついてくれるとは。
この隙を逃がさんと、僕は一目散に駆け出した。まだフランクさんは、いもしない女性の影を探している。
住宅街を抜けると、ごつごつしたテトラポッドの重なりが見えてきた。もうすぐ海だ。僕は急いで、浜辺に降りる階段を探す。
「いないじゃないか、こんのクソガキィイイイイイイッ!」
 バッ、バレた! 般若もびっくりの顔つきで追いかけてくるフランクさん。
僕は、脇目も振らず、石造りの階段を下りて砂浜を走っていった。思った以上に砂に足が取られて走りにくい。蟻地獄に、いちいちはまってるみたいだ。でもそれは向こうも同じみたい。後ろからひぃひぃ言ってる声が聞こえるもの。靴の中にどんどん砂が入ってきて気持ちが悪いけど、あいにく呑気に砂を取ってる余裕はなかった。
こんなに走ったのって、新体力テストの長距離走以来だと思う。あれって嫌いなんだ。走ってるうちに何週したかよくわかんなくなってきちゃって、どこまでも終わりがないように思えてくるんだもの。大好きな音楽でもかけてくれればさ、もしかしたらもうちょっと楽になると思うんだけど。
「手伝えっ、坊主ぅうううううっ」
「やだったらいやだあぁああ」
 わーんわーん、ああ悲しいよ。お前もこんなことになるとは思わなかったろうにさ、香よ。僕はさ、夢碧さんと二人で、海を背景にしてかけっこするはずだったのに。あん時のニヤニヤしてた自分に教えてやりたいね、今に柄の悪い大男とかけることになるよってさ。
「止まれえええええええっ」
 僕もフランクさんも息が限界まで上がっていた。終わりのない競争だったけど、それももう終着点に近い。二人の距離が開いてきているんだ。フランクさんがだいぶ後ろに見える、やったね。地元民をなめちゃあいかんよ。
「もうくるなぁあああああああっ」
 と思いっきり後ろを向いて叫んだのもつかの間、僕はズズズと砂に足が埋まるような感覚がして、顔面から地面へ大の字で突っ込んだ。
「ぼくの城がぁあああああああ」
頭上から、僕のさっきの声と負けないくらいの絶叫が聞こえてきて、僕は体を起こした。すぐ隣に、黄色い帽子を首に引っ掛けた男の子がいて目が合った。男の子のすぐ後ろに、黒いランドセルが置かれているところから見て、小学生のようだ。多分一年生だと思う。
懐かしいなぁ。一年生くらいだとさ、どっちが背負われてるのか時々わかんなくなるんだよね。僕も小学生の時、靴を履いて立ち上がろうとしたら、あまりの重さに尻餅をつくことが何度もあったもの。起き上がりこぶしだよね、あれは。
僕の目の前には、倒壊した砂の城だってであろうものがあって、見事に僕の体の跡が残されている。まるで巨人が降ってきたみたいだ。
「お兄ちゃんがぼくのお城、壊しちゃいましたぁー」
「ご、ごめんね」
 まん丸の目が僕を見つめていて、謝らずにはいられなかった。
「ぼくね、砂の城作り名人を目指していて、毎日こうして修行しているんです」
 幼いうちから修行をしているとは、なんとも素晴らしい人材だろうと僕は思った。かくいう僕も、階段二段飛ばしの修行をしているから、そのうち二段飛ばし名人と名乗ってもいいかもしれない。
「それで今日のはですよ、今までで一番のお城だったんです」
男の子の顔が、悲痛に歪められる。
「ペーナ宮殿に負けないくらい凄いやつだったのに……」
「うう、ごめん」
 そのペーナ宮殿っていうのはよくわからんけど、とりあえず凄い城だったっていうことはわかった。僕は、教室を歩いていたら誰かが書いたラブレターが風に飛ばされでもしてきて、ちょうど足を置いて踏んじゃったくらい悪いことをしたなと思った。
 男の子がもう泣きそうに見えて、僕は咄嗟に言った。
「僕が直すから」
「えっ、本当に?」
 男の子のぱっちりした目が、さらに大きくなって僕の顔を覗き込んだ。
「本当さ。きっとすんごいやつを作るよ」
 僕は、砂でじゃりじゃりしたままの顔で神妙に頷いた。僕はペリーだかペルーだかに負けないくらいのやつを作ろうと思ったんだ。これは手術である、と僕は思った。僕は医者になったつもりで城を治そうと思った。僕はかなり器用だからな、いけると思ったね。
そうと決まれば、迷うことはない。早速足元に砂を集め始めた。
「坊主ぅうううううっ」
 と、ここで追いついたフランクさんに一喝。
「ほらフランクさんも手伝って!」
「え? あっはい」
 
 
「これからオペを開始する」
 僕はそう言うと、両手を胸の前まで持ってきて、指を揃えた手の甲を外側に向けた。別に本物を知ってるわけじゃないけど、テレビでならあるからね。気分は手術するお医者さんなのさ。手術中に「メス」とかかっこよく言うような具合でね。
「ここはもう少し砂を」
と、僕はすばやくフランクさんに指示を出した。
「はいよ。もう少しっと」
奇妙な共同作業が始まった。僕の命により、フランクさんは三つの盛り上がりの真ん中に砂を盛った。計画としてはだね、三角の屋根が付いた塔付きの城を作る予定なんだ。規模からして、かなり広範囲になると思う。高さもね、もっと高くするんだ。僕の身長は(四捨五入して)一五三センチだけど、その半分くらいはいきたいな。
隣では、男の子が僕たちの方を興味深く見ている。表情からしてひどく感激してると思うよ、ほんとに。僕はプロだから、多くは語らなかった。職人って言うのはさ、口数が少ないんだよ。だから、弟子は背中で学ぶんだよな。僕は、この男の子を「弟子第一号君」と呼ぶことにした。
「う~ん」
 黙々と作業する中、僕は唸った。当初の目的としてはだな、連日話題になるやつができるはずだったんだ。しかしね、どう見てもただの砂山にしか見えないんだ。しかも、全然砂が高くならないである程度の高さになると崩れてしまう。弟子一号が心配そうな顔で見てくるもんで、僕は「大丈夫、真ん中のとこがもう少し高ければ」と安心させるように頷いて、フランクさんが作った真ん中の塔を触った。あ、崩れた。
「俺の城がぁあああああああああっ」
フランクさんが頭を抱えた。
 その時、雷が落ちたように僕は素敵なことを思いついた。
「弟子一号くん、何かバケツみたいなのはあるかな」
「え、ぼくのことですか?」
「うむ」
「ビニール袋ならありますけど」
 弟子一号君がビニール袋をひっくり返すと、中からセミの抜け殻がボロボロ落ちてきた。僕は「あっ、仲間だ」とニターッとするのを必死に堪えた。何故って、ここで表情を崩してしまったら、せっかくカッコよく決まったお医者さん状態が台無しになってしまうじゃないか。
「では、至急海水をよろしく頼むよ」
 僕は、唇を引き締めて言うことに成功した。
「はいわかりました」
 弟子一号君は海に駆けていった。その間は僕たちの仕事だ。
「フランクさん、ここを掘って固めましょう」
 僕は、体育座で顔を伏せているフランクさんに声を掛けた。
「ねぇフランクさんってば!」
「はぁ」
 ふっ、負の大魔神に戻ってる。
「壊しちゃったのは謝りますっ。でも僕、すごくいいアイデアを思いついたんです!」
真ん中の土を手でかき分けながら、僕はフランクさんを覗き込むように見た。
「はあ、そうかい」
 やっとこさで、フランクさんは返事だけはしてくれた。
「あの、海水持ってきました」
「ありがとう。ちょい待って……、うん、入れていいよ」
 僕は、弟子一号君に崩れた部分に海水を入れるように言った。楕円状に水が溜まっていくのをちらと見て、フランクさんが呻き声を上げた。
「これ、何ですか?」
「湖だよ」
「湖、ですか?」
「城との塔と塔の間にある湖。住民はさ、ここをボートで渡って移動するんだよ。魚とか住んでてさ、景色も綺麗なんだ」
「いいですね」
「でしょ? でも濁っちゃったよね。あともう少し大きくしたいな」
 僕は、もう少し整えようと思って砂の幅を広げて固めた。するとますます濁ってしまって、僕はどうしようかと息を吐き出した。イメージしたのと違うんだよなあ。
「しばらくほっときゃ汚れも落ち着くさ」
「フランクさん」
いつの間にかフランクさんが隣にしゃがんでいた。
「それより坊主、こんなのはどうだ?」
 フランクさんは、湖の縁のところに先がギザギザした白い貝殻を置いた。少し砂が被ってしまったけど、むしろ味があるんだ。
「いいですね、宝物が埋まってるみたいだ!」
 これは思いもつかなかった、と僕は思った。
「だろ?」
フランクさんは、ふふんと得意げに笑って言う。
「そこのちっこいのも、一緒に貝殻を探そう」
「ぼくも良いんですか?」
「お前さんも見てるだけじゃ退屈だろう? こういうのはみんなでやったほうが楽しいのさ」
「やった」
 僕たちは、方々に散って貝殻を探し始めた。スタンダードな真っ白の貝殻や、貝の内側に色が付いているのとか、ぐるぐるした形の貝。それから、少し曇りがかったマットな質感で、パステルカラーのシーグラスも拾ってきた。みんなで集めたのを自由に湖に入れたり、湖の周りもデコレーションしていった。それから男の子のアイデアで、塔の側面や上にも貝殻を飾った。僕も落ちてた緑と赤っぽい海藻を使って、森を表現することを提案して採用された。最後に、拾ってきた流木で左右の塔の間を繋ぐ。こうすることで、塔の間を歩いて行き来できるんだ。
「できた!」
 とうとう僕たちの作った城が完成した。
「楽しかったー」
 男の子の言ったことに、僕も大いに同意した。こんなに凄いことができるなら、フランクさんの言う通り、始めから協力していたら良かった、と僕は思った。
名前は知らないけど、僕たちの間には確かに友情があった。ただ、男の子の目指したものとは程遠そうなのが少し気掛かりだった。
「その、君の作ってた城とは違うかもしれないけど、どうかな?」
 男の子は、しげしげと城を眺めた。
「確かにぼくの作ったやつとは随分、テイストが異なるなとは思います。けど……」
 男の子は微笑んだ。
「形は変わりましたが、これはこれでいいところが沢山あります。ぼく、このお城が好きになりました」
僕はハッとした。夢碧さんのことと重なったからだ。彼女は宇宙人なのかもしれない。けど、どんな姿形だって夢碧さんは夢碧さんなんだって。僕は、夢碧さんのほんとのことは良く知らない。けど、今までの夢碧さんならよく知ってる。いいところだって、誰よりもいっぱい言える。感情的になって、フランクさんにあんなこと言ったけど、夢碧さんが今困ってるなら僕が助けたいと思った。やっぱり僕は、夢碧さんが好きなんだ。
「良かった」
 枠に捕らわれないお城が作れて良かったし、この子のお陰で自分の気持ちが明らかになって、心がスッキリした。
「あの、お礼と言ってはなんですが、こちらをお譲りします」
 男の子はランドセルを漁ると、中からツボを取り出した。
「どうぞ」
受け取ると、フランクさんと一緒に眺めた。それがまさに、ザ・壺というべき壺なんだな。回して見てみると、全体が茶色をしていて、上の方は白みがかった色をしているんだ。ソースが垂れたみたいな模様してるやつ。
 僕は蓋を開けてみた。中を覗き込むと、暗くてよく見えないけど、何か液体が入ってるみたいだった。「こ、これはっ」とフランクさんが言った途端、温泉のような腐った卵チックな臭いが鼻を突いて、思わず壺を離しそうになった。
「く、くっさ。ねえ、これ何? あれ……?」
 そこには誰もいなかった。男の子も、ランドセルもビニール袋も無かった。僕たちが作った城だけが、残っていた。
「フランクさんこれは」
 フランクさんは指を壺に突っ込むと、人差し指に緑っぽい液体をつけて、人差し指と中指でネチョネチョさせた。何か紫っぽい塊とか変な繊維がついてる。うげぇー。
「宇宙人の体液だ」
「何て?」
「宇宙人の体から出る体液だ」
「ふぇええっ」
 僕の手から壺が滑ったのを、フランクさんが見事にキャッチした。
「たいちょーーーーっ」
 サドさんとタタンさんがこちらにかけてくる。
「どうした」
「いいからこれを見ろ!」
 サドさんが小さく折りたたまれた白い紙を、フランクさんに突き付けた。フランクさんは地面に壺を置いてから目を通すと、あっと声を上げた。
「それなんですか?」
「読んでみてくれ」
 フランクさんに紙を渡される。なになに?

お前たちのお嬢さまは預かった。返してほしければ我々の拠点まで来い。
ポウ星のサミウ
 
「ポウ星人か」
「ポウ星人って?」
噛みしめるようにフランクさんが言った。
「ポウ星人っていうのは我々と近い位置の星の種族なんだが、その基本的に仲が悪くてな。正直いつ戦争になるか分からないくらいの情勢なんだ」
「そのポウ星人の人が夢碧さんを捕まえたってことは……」
「ああ、ただでは済まないな」
「夢碧さん、大丈夫かな」
「とりあえず人質に酷いことはせんだろう。ただ……」
「ただ?」
「ポウ星人は気性がとても荒いんだ。すぐカッとなる」
 そんな人に夢碧さんが捕まってると思うとぞっとした。
「どうしよう」
「おいどうするんだよフランクッ」
 サドさんは苛立たし気に言った。
「うーむ」
「あの……」
 遠慮がちに呼びかけられ、僕らは壺の前でしゃがんでいるタタンさんの方を見た。
「これはどうですか」
 タタンさんは下の壺を指さした。サドさんは壺を覗き込むなり、「くっさっ」
 と仰け反って尻餅を着いた。
「そうか!」
 フランクさんは「でかした」と言って顔を綻ばせた。
「坊主、これを使ってお嬢様を救えるぞ」
 

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