リハビリつれづれ 15

 私は少し緊張している。目の前にある建物の看板には“Wake me up”とおしゃれな横文字が並んでいる。入り口を入ると、ウッド調と白を基調とした明るい雰囲気の中に観葉植物が飾られている。中で座っている人たちが、どこか都会の雰囲気を漂わせているのは、大きな鏡の横にコートがかかっているのと、皆がファッション誌を読んでいるからであろうか。立って仕事をしている人たちは、甘いマスクとハサミを巧みに使いこなしている。本日私は髪を切るためにいきつけの床屋ではなく、みなとみらいの美容院を予約したのである。
 私は、どうしてひらがな一字が小文字か大文字かの違いだけでこんなにも部屋の中にいる人の雰囲気が変わってしまうのか不思議に思いながら受付へ向かった。
「すみません、10時に予約をした中原です。」
「中原様。お待ちしておりました。ではこちらの方にお願いします。」
 案内された椅子に座ると、目の前の大きな鏡には美容院の雰囲気に馴染んでいないスウェットを着た自分の姿が映っている。襟元から見えるTシャツの位置を直していると後ろから長身の男性が声をかけた。
「中原様。ご来店ありがとうございます。本日カットを担当させていただきます、遠藤と申します。よろしくお願いします。何かご希望のヘアスタイルはありますか?」
 遠藤さんは緩めのパーマをかけた茶髪の髪型で、耳に少し太めの丸いイヤリングを付けていた。
「今はやりの髪型にしてほしいのですが、お願いできますか?」
 遠藤さんは少し困った表情を浮かべたが、すぐに美容師の顔になった。鏡に映った私の顔を見て、私の髪を触りながら口を開いた。
「分かりました。ちなみに、結構バッサリといっても大丈夫ですか?」
「大丈夫です。よろしくお願いします。」
「では始めて行きますね。」
 遠藤さんは手際よくスプレーを吹きかけ私の髪を濡らしていき、その髪にハサミを入れた。私は大胆かつ手際のよい遠藤さんのハサミ捌きをみていた。
「今日はお仕事お休みですか?」
「そうですね。」
「お仕事は結構忙しいんですか?」
「そうですね、医療従事者なので、なかなか忙しいです。」
「医療従事者なんですね。大変ですよね。夜勤とかはあるんですか?」
「私は理学療法士なので夜勤はないです。」
「理学療法士さんですか。リハビリの人ですよね。私の祖母が入院した時にお世話になりました。」
「そうでしたか。私も高齢の方を担当することが多いですね。」
「そうなんですね。理学療法士もなかなか大変なお仕事ですよね。」
「そうですね。」
 ここで話は途切れ、遠藤さんは別のハサミに持ち替え、より丁寧に私の髪を切り始めた。
 髪の毛を切ってもらう時間は3.40分くらいであろう。私が患者さんに提供しているリハビリ時間も40分の人が多いため、その点では美容師と理学療法士は似ている。また、その時間感覚で多くの人を担当するというのも似ている点である。
 人が人と接するとき、困るのは”沈黙の間”である。私はこの間が怖くて患者さんと接するときにも会話が途切れないように話しかけてしまう(呼吸器の病気の方は息切れの様子を見ながらであるが)。だからこそ、このような短い時間にどのように話を振るのか、もしくはどのような返答をすればよいかを気にしてしまう。ただ、遠藤さんは始め世間話を私に提供したあと、特に話かける様子はなく、真剣な顔でハサミを動かしていた。遠藤さんはこの沈黙の間が怖くない人なのかもしれない。ただ、私自身は先ほどお伝えした通り沈黙が怖い人間である。この沈黙は先ほどの私の会話の返答が平凡なものであったからかもしれないなどと考えながら、遠藤さんの手際の良さを観察していた。
 遠藤さんのハサミ捌きにより、私の髪型は大きく変わった。遠藤さんは私の前髪を整え終えると自分の前髪を触りながら大きく息を吐いた。そして、両面鏡で私の後頭部を映した。
「少し長めにしておいたのですがこんな感じでよろしいですか?」
 私は新しくなった髪型の正解が分からず、
「これで大丈夫です。」
 と返答した。
「今のはやりはもう少しトップが短いのですが、中原様の場合、顔の形を考えると少し長めの方がバランスがよいと思いましてこのような仕上がりになりました。お似合いですよ。」
「ありがとうございます。」
 私は正解が分からないのであるから、髪を切るプロである美容師を信頼するしかない。そして、そのプロの美容師がお似合いであると言っているのであるから、私はその言葉を信じた。いや、正確に言うのであれば信じるしかなかったのであるから信じたのかもしれない。そして、この美容室の環境にも影響され、私は新しい髪型をオシャレと認識し、自信が付いた。
 この後遠藤さんの丁寧な接客を受けて、私は美容室を後にした。

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