擁護?のち批判ー某ロックバンドミュージックビデオ配信停止事件について試論

要約

「ミセスグリーンアップル」は悪い。しかし、それは、彼らのアーティスト性や人間性に起因することではなく、ただ単に無知だっただけである。だから、彼らには、この失敗を糧にしてもらいたい。そのためにも、無知ゆえの失敗を認めるのが、表現者たる姿勢である。

しかし、コメントからは、そういう姿勢が感じられず、そこには失望した。ただ、本当に失望したのは、ユニバーサルミュージックである。矢面に立ち、彼らの「再起」を支援しろよ。

前提:表現者とは?表現するとは?

前提1:全知全能ではないが、全身全霊である必要がある

表現者は、全知全能ではない。人間である以上、何らかの人間的「限界」は有している。また、どうしても、無知なことは出てくる。当然である。だから、無知であることは責められても仕方ない。ただ、それをもって、その表現者のアーティスト性、さらには人間性を否定するのは、話のベクトルが違う。

表現者は、全知全能でない。しかし、表現者は、全身全霊で自らの表現に向き合わなければならない、とも私個人は考えている。特に、表現の初期段階では、何らかの「外的要素」を意識することは、作品をつまらなくする最大の要因だと考えている。この段階ではまだ、表現者の差別意識など、暗黒面もないまぜになった混沌が表現されていなければならない、と私は考える。

そこから出る一つの「観念論的」結論は、以下の通りだ。表現者は確かに全知全能ではない。しかし、作品として世に問うた以上は、全身全霊を傾けた作品に対する評価に対しては、真摯に向き合わなければならない。

前提2:差別「行為」はよくないけれど

差別はよくない。これも、当然である。しかし、私は、人間が人間である以上、何らかの差別意識から逃れることは不可能だと思っている。それに対し、私個人は、自らに差別意識が存在することを否定することではなく、「肯定」し認識するから始まる、と考えている。

「あるもの」は仕方ない。差別意識が、作品に刻まれてしまうのは避けようがない。大切なのは、作品に刻まれてしまった、自らの差別意識の正体を見極め、誠実に昇華することなのだろうと思う。

結論としては、差別意識を抱いていることと、実際に差別「する」ことには、ある一定の区別が必要だろう、というところか。

前提3:作品を高めるためにあるべき環境

最後に、かなりの綺麗事で、前提を締めようと思う。それは、表現の場においては、表現者だろうが、スタッフだろうが、パトロンだろうが、ある作品を完成させるために集まった、平等の立場にいるメンバーだということだ。もちろん、私が述べていることが夢物語であることは、重々承知している。しかし、意見を交わし合うという風通しのよさがない表現の場はすぐに硬直し、長続きしない、と私は信じている。

そもそも、表現者がスタッフを集めたり、レコード会社のような組織に属するのは、自分だけでは至らないところをカバーしてもらうためである。しかし、表現者の周囲にいる方々が何も意見を言わないならば、そう言った方々が存在する意味が、根本的に失われてしまうのだ。

もちろん、表現者は、自らの表現に誠実でなくてはならない。しかし、表現をさらに高めたいならば、表現の場におけるメンバーからのフィードバックには、「ある程度」柔軟でなければならないだろう。表現という仕事は、精神的タフさが必要な因果な商売だと、つくづく思う。

本題

さて、本題に向かおう。俄かに話題になってしまった、ロックバンド「ミセスグリーンアップル」のミュージックビデオ問題である。以上で述べた前提を考えた結果、私なりには、次のような評価となった。

1.ミセスグリーンアップルへの仄暗い謝辞

これは、私の「歴史好き」としての「感情的な面」から湧いてくる。具体的には、「歴史が役立たないなんて、誰が言った?彼らを見ろ。基本的な歴史知識を欠いていたために、非難轟々じゃないか!」という、誰に対してかは分からない、勝ち誇った感情が、次々と湧いて出てくるのである。

しかも、彼らの場合、それが、ミュージックビデオ配信停止に繋がっている。これはつまり、このミュージックビデオにかけた全コストが回収できないということである。経済面で言っても、彼らは、大きな損失を被っている。繰り返すが、それは、本当に基本的な知識があればよかったのである。それが、「残念で」ならない。

私に反論の論拠を与えてくれた「ミセスグリーンアップル」には、そういう意味で、謝辞しかない。こんなことを言う、私の性格がねじ曲がっているのは否定しようがない。しかし、今回のような作品を作ってしまった彼らを、差別的だ!と責めるつもりはない。もし仮に、彼らがそういう歴史的知識を持ち合わせていれば、今回ボツになった楽曲やミュージックビデオを作っていなかっただろうと、私は信じる。

正直言えば、事前にきっちりリサーチすればよかったのだろう。ただ、結果としては、彼らは無知だった。それもよくないことが、それだけと言えば、それだけである。

2.その代わり、私が見逃せない点:製作体制

「ミセスグリーンアップル」の3人が、制作において、どれだけのイニシアティブを握っているのかは知らないし、関心はない。しかし、今回の楽曲やミュージックビデオにしたところで、スタジオミュージシャン、撮影隊だけでなく、広報部ほかレコード会社に勤務する多くの方々の眼に触れ、手に触れ、完成したはずである。それなのに、誰一人、今回の結果を想像できなかったのだろうか。だとすれば、うすら寒い実態である。

逆に、誰か一人ぐらいはまずいと思っていた人物がいたと言うならば、そちらの方がうすら寒い実態である。もしそうならば、今回の件がなかったとしても、「ミセスグリーンアップル」は早晩失速していたな、と確信を持って言える。その理由は、もう話した。メンバー以外の誰もが意見を言えずに失敗したならば、それは、メンバーの表現者としての失敗に他ならない。

3.私が今回の事件で一番反感を感じたこと

これは、結論から行こう。それは、メンバーが、今回の作品が無知ゆえの「失敗」だと、素直に認めなかったことだろう。ニュースで聞いた程度だが、メンバーは「自分たちの真意が伝わらず残念」という感じのコメントを出していた。ふざけるな!お前らは政治家か!と思った。

繰り返すが、「ミセスグリーンアップル」のみなさん、あなた方は失敗したのだ。ただそれは、あなた方が無知だっただけだ。あなた方のアーティスト性や人間性を否定するものではない。あなた方は、無知ゆえの失敗を乗り越え、さらに表現を磨き、今回の失敗を払拭するような作品を作り上げればいいだけなのだ。そのためには、言い訳ではなく、自分の失敗を素直に受け入れる姿勢が必要だ。それはまた、誕生直前でボツになってしまった作品に対する、全身全霊で行える唯一の礼儀だ。

しかし、今回の件で私が一番反感を感じた「存在」は、ユニバーサルミュージックである。何が「ユニバーサル」だと思う。所属ミュージシャン、守れよ。このままだと、「ミセスグリーンアップル」が袋叩きにあって、空中分解しかねないぞ。それとも、もはや切り捨てるつもりなのか。ユニバーサルミュージックさん、あなた方が矢面に立てよ。

付け足し:今回の文章を作るきっかけになった理由

結論から言えば、今回の事件の背景には、歴史認識問題があること。私自身は、「ミセスグリーンアップル」のファンではないが、つい関心を持ってしまった。

テレビやネットを見る限り、私が望ましくないと考える方向へと、話が進んでいるように感じた。そこで、本題としては、今回の事件に対する、私の評価の一部を取り上げた。思考の出発点となった、歴史問題については、本題の要旨から外れるため、本論からは除いた。

ただ、繰り返すが、私は「ミセスグリーンアップル」好きではなく、「歴史」好きなのだ。そこで、付け足しとして、「軽く」触れておこうと思っただけ。

出発点:歴史を勉強する必要があるのか。

私個人は、理性面では、歴史を勉強する必要はない、と思っている。私は歴史が好きだから、無意味に貪欲に勉強してきただけである。その結果、誰とも会話が成り立たない「偏った知識」を数多く獲得した。好きならば、勉強すればいいし、嫌いまたは関心がないならば勉強しなくていい。歴史を勉強しなければならない理由はない。ただそれだけのことである。

このように、理性面では、かなり理解があるような、殊勝なことを述べている。しかし、私は、人間性が複雑に捻じ曲がった、ややこしい人間である。感情面では、実はそうではない。特に、「歴史なんて、何の役にも立ちませんよね」と、明るく爽やかに言われたら、隠しているどす黒い殺意が、心の奥から顔を出しそうになる。

つまり、私には「歴史」に対して、理性面と感情面では、正反対の考えを同時に抱いているということだ。

だからこそ、別の意味で失望したこと

それは、現在の日本では、歴史がいかに不要とされているかを、今回の事件がまざまざと見せつけたことである。感情的には、本論で述べたように、「ざまあみろ」と勝ち誇った。しかし、理性に立ち返ってみると、厳然たる現実が目の前にある。私はやはり、完全に敗れ去ったのだ。

厳然たる現実。それは、歴史の知識などからきし持っていない方々、ユニバーサルミュージックの社員様たちの方が、私よりもはるかに高給取りであるという現実である。ここまで来れば、もはや負け犬の遠吠えでしかない。またしても、無意味なウツイートを作ってしまった。お後がよろしいようで。

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