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「小説家の映画」は意外と残酷な映画なのかも知れない

執筆から遠ざかっていた小説家が、第一線を退いた女優と出会う。小説家は女優と会話を重ねることで、彼女を主役にした映画をつくりたいという気持ちが湧き上がってくる。

ホン・サンス「小説家の映画」
ほんの90分ほどの映画だけど、いつものホン・サンスのようにワンシーン・ワンカットの会話だけで構成されているので、おそらく全カット数は20前後じゃないだろうか。

会話劇といっても、空間を活かしながら、演者を前後左右に動かし、小道具を効果的に活用する、なんてことはない。立ったまま、座ったままで会話は進む。

退屈?
いや不思議とそうじゃないんですよ、これが。

派手なアクションや突飛なキャラクターや感情あふれる迷(?)演技なんかなくたって、ホン・サンスの映画には最後まで惹きつけられてしまう。
何でしょうねこの世界観は。


例えば居酒屋なんかで、たまたま居合わせたグループがいたとします。
笑い声が響き合い、遠目から見ると一見賑やかで、全員が気心知れた関係のように見えます。
でも、よくよく観察してみると、集団の片隅で居心地悪そうにしている人がいることに気づきます。

そんな彼・彼女は、時折の作り笑いや手持ち無沙汰の指先や遠く壁に貼られたお品書への視線なんかで、この窮屈な時間と戦っている。
そんな様子を発見すると、そんな彼・彼女の心の奥底を想像すると、
申し訳ないけど、おもしろくってたまりません。

人間が根源的に一番興味を抱くのは、やっぱり人間なんだ。

ホン・サンスは、自身がおもしろいと感じた人間の心の動きを、映画という時間のなかで見事に描いてくれています。



「小説家の映画」では、いくつもの気まずさが表現されています。

後輩の経営している書店を訪ねる小説家。店に入ると、その後輩が店員に怒鳴っている声が聞こえる。気まずさから店を出る。

小説家はかつて自作の小説を映画化しようとした映画監督と出会う。映画化出来なかった理由を述べる映画監督。もう今更そんなこと、と気まずさに包まれる。


小説家はかつて酔った勢いで一度だけ寝た詩人と酒を飲むこととなる。あの頃はあの頃は、としきりに言う詩人との時間の気まずさ。


そんななか、小説家は今はほとんど映画に出なくなった女優と出会う。
映画監督は、そんな女優に対し、「映画に出ないなんてもったいない」「もっと出るべきだ」と、しきりに話しかける。
小説家は、その強引で、良かれと思ってのアドバイスに不快を示し、声を荒らげます。

「自分のしたいことを楽しんでしている人を尊重すべきだ」と。


そして小説家は女優と会話を重ねることで、彼女を主役とした映画をつくりたい、という気持ちが沸き上がってくるのです。

そして、完成したその映画は…。



「小説家の映画」にはおもしろい、とか、つまらないの言葉で簡単に片付けられない「なにか」があります。
評価はとても難しい。


配給元のミモザフィルムズのサイトには著名人たちのコメントが掲載されています。
角田光代、尾崎世界観、深田晃司、酒井順子らのコメントは、みなさんさすがです。絶妙な言い表し方です。明確に語っているようで、何を言っているのかよくわからない言い表し方です。

配給元のサイトだから絶賛であるのは当然でしょう。

その絶賛の表現が、具体的にならず抽象的で、巧みに言葉を操りながら、なんとなーく褒め称えている雰囲気をかもし出しています。
これら言葉の魔法に「絶賛コメント」なんて枕詞が加わると、一気に傑作感が高まってしまいます。

いや、たしかに「小説家の映画」は、ひと言で語れない映画です。しばらくの間、頭の中から離れず、こうして文章に向かわせる不思議なパワーを秘めています。
未だに、なんだろうこの脳内をくすぐるような存在は?と考えてしまいます。



創作への意欲を失いかけている小説家と女優が出会い、再び表現への一歩へと踏み出す物語、と簡単にまとめてしまえない何かが今も残っています。

それはやはり、ラストのキム・ミニのフルショットにある、としか言いようがありません。


小説家がどんな映画を作ったかは、撮影シーンも描かれず、完成品も私たち観客の前には示されていません(ほんの一部、らしきシーンはありますが)

その内容は、編集に立ち会った女優の甥の言葉<微妙な映画>と、試写を終え、試写室から劇場ロビーに姿を表すキム・ミニの表情から推測するだけです。

ひとり完成試写を見終え、ロビーに出るとそこには誰もない。

そのキム・ミニのフルショットをカメラはワンカットで捉えます。
その全身は、その表情は、けっして満足感に包まれたようなものでも、笑顔に溢れたものでもありません。
むしろ、どこか不満や納得のいかなささえ感じ取れてしまうものでした。
このキム・ミニから、わたしたち観客は何を読み取り、感じ取ればいいのか。
答えを委ねたまま、「小説家の映画」はエンドロールとなります。


映画も小説も、表現には持続力が必要となります。
映画は、脚本から撮影編集と長い道のりがあり、
小説も、構想から書き出し推敲まで長い道のりがある。

小説が書けなくなったという小説家にとって、創作や表現への一番の手応えを感じたのは、映画製作そのものではなく、そこに至るまでに描かれた、本屋のアルバイト女性から手話を習ったり、偶然女優と出会ったり、更に女優の甥がカメラを回している、と知ったり、ラーメンを食べている食堂の窓越しにじっと女優を見つめる少女の姿を見つけた時だったんじゃないだろうかと思ってしまいます。

映画をつくりたいと感じたその直感や情熱を、映画の完成まで持ち続けられたんだろうか、という皮肉な結末をも感じさせるものが、ラストのキム・ミニのフルショットに込められていたような気もしてしまいます。


もっと穿った見方をするならば、「小説家の映画」の小説家は、監督ホン・サンスの分身であるような気もします。


今現在も(?)不倫関係にあるホン・サンスとキム・ミニ。
この映画の小説家のようにキム・ミニと出会ったホン・サンス。キム・ミニを主役にいくつもの映画を作ってきました。
私小説ならぬ私映画そのものです。

でも、その愛に限界を感じ始めている、二人の決別を示唆した映画、と捉えるのは考えすぎでしょうか。

「もう私たちの映画には無理があるかもしれない」
そんな表明が、あのラストのキム・ミニのフルショットに込められている、なんて想像さえしてしまいます。



前述のミモザフィルムズの著名人コメントのひとつに、ヒコロヒーのコメントがあります。
ヒコロヒーはこう書いています。

「何を見させられているねんという気持ちと、何て凄いものを見ているんやという感情が同居していました」

私自身も感想は、まさにこのヒコロヒーと同じ。
いったい何なんだ、と思わせながら、なんか凄いぞ、なんて響かせる。

そういう映画が存在することが、一番の驚きです。


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