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メタバース・クリエイティブ・ノオト(8)

 ここ2カ月ほど、ご無沙汰していました。
 あれこれ、物語執筆の沼にはまり込み、八作品を書き終え、気づけば3月の声を聴くころになってしまいました。失礼しました。
 さて、前回は、「さて、VRの世界での作庭師とは?その基本となる共通感覚論について、次回は確認したいと思います。」で終わっていたので、そこから話を綴らせて頂きます。
 先般、某公共放送局で視覚が変われば、食べているものの味などが変わるという実験をしていました。VRのヘッドセットをつけての話で、それはそれで興味のある番組でした。が、残念ながら視覚優先主義に陥った文化的背景については語られていませんでした。
 古くは、18世紀に反デカルト主義を標榜したジャンバティスタ・ヴィーコ(「新しい学」中公文庫)から、身近では中村雄二郎の「共通感覚論」(岩波現代文庫)まで、その間にも、ミシェル・フーコーやメルロ・ポンティ等、数々の方が、この視覚優先主義時代に警笛を鳴らして来ました。中村雄二郎の「共通感覚論」では、M . C .エッシャーの「物見の塔」や「滝」、ルネ・マグリットの「甘美なる真実」、「人間の条件」、「ユークリッドの散歩道」や「言葉の散歩道Ⅰ」などの絵画を例に出し、視覚優先主義時代に警告を発しています。彼によれば「学問や理論の領域での〈視覚の独走〉に対しても〈体性感覚の回復〉が要求されることになる」としています。
 よくよく考えれば、私たちは多様な感覚を保有しており、私たちが生きるということは多様な感覚を使うことであるはずなのですが、近代でのデカルト主義(理性優先主義?)時代を一世紀以上経験することで、見た目は進歩したのかもしれませんが、実は多様な感覚を捨てた退化なのかもしれません。
 さて、VRの作庭師として求めたいのは、この全感覚を今一度蘇らせることです。せっかくのVRセットという手段にも関わらず、視覚優先主義に陥っていては、そこには文明史的な進歩などなく、おそらく、「ライブに行く方が良いよね」と捨て去られる運命にあると思います。
 ここでは語るべき様々なポイントがありますが、例えば、振動という感覚です。約140億年前のビッグバン直前の塊では大量の光子、ニュートリノ、電子、少量の陽子や中性子ごちゃごちゃと振動していました。その振動にはすでにビッグバン後に広がる宇宙という時間と空間が内包されていたはずです。こうして、パソコンを使い文字を打っている私という生物体の約60兆個の細胞も振動していますし、天井を見上げれば照明がありこの光も振動しています。書斎の空気もまた振動しており、個体である机も振動しています。
 視覚優先主義では決して理解できない、けれど全感覚でもってすれば理解できる(ここでいう理解とは言葉に置き換えて意味化できるということではなく、感知とした方が良いのかもしれません。野生的な感知です)はずです。さて、ここからVRの作庭師としての楽しみのお話をさせて頂きます。
 中嶋雷太

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