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マイ・ライフ・サイエンス(21)「雨の日の憂鬱。晴れの日の快楽」

 雨の日はセンチメンタルっぽくなるというか、憂鬱なものだとなんとなく多くの方が思っているようです。人によれば、それは気圧が影響しているのだとその理由を語るのが「常識」(コモンセンス)になっていたりしますが、ま、ポツリポツリと雨だれの滴りに酔う「アンニュイな私」な感じでしょうか。
 Googleで検索すると「耳の奥にある内耳という器官が気圧の変化を感じると考えられており、内耳が敏感な人は気分が落ち込みやすいです。 気圧の変化を感じると交感神経と副交感神経のバランスが乱れてしまいます。 交感神経が活発になりすぎると頭が痛くなり、副交感神経が活発になりすぎると気分の落ち込みを感じます。」と的確な説明文が現れます。やはり気圧は侮れません。
 ところが、天邪鬼の私は、「ほんまに、そうかいな?」と思ってしまいます。例えば、名作映画「雨に唄えば」(1952年)で歌われる「Singin' in the rain」は、雨にびしょ濡れになりながら明るく歌い上げられる名曲であり、名作映画「明日に向かって撃て!」(1969年)の挿入歌「雨に濡れても」も明るい楽曲で有名で、雨=憂鬱という構図の真逆の快活なイメージを膨らませてくれますが、なかなか雨=憂鬱な構図は崩しがたいものです。気圧のせいで、雨=憂鬱になる!で話を終えそうですが、よくよく考えると気圧だけのせいではないのではと思われ、憂鬱な感じだけで良いのか?と疑う私です。
 憂鬱等のどちらかと言うと暗いマイナス・イメージで雨の日を語りやすいのですが、実は落ち着くという方がより良いような気もしています。例えば、視覚から考えると、光が少ない分だけ落ち着くのではないでしょうか。眠るときに目を閉じることからも、人間は強い日差しよりも曇天の方が、視覚的には落ち着くはずです。湿度で言えば、梅雨時の高温多湿は困ったものですが、ある程度の湿気は肌や髪の毛などの表皮、つまりクチクラの細胞が潤うはずです。さらにさらに、農業という面では適度な雨は豊作の証しですし、工業という面でも渇水は避けたいところです。
 おそらくですが、都市も地方も都市化を目指してきたツケが、雨=悪というイメージに拍車をかけてきたようにも思われます。自然をコントロールしようとコンクリートとアスファルト頼みで、監獄と変わり映えしない風景になり果てても、黙々と硬質で灰色な街や村作りに励んでも、自然は荒々しくその監獄を襲い、人は嘆くわけです。不可思議な文明ですね。
 さてと、気づけば善悪二元論という安直な価値観で物事を断罪する、とても子供っぽい風潮がありますが、ライフ・サイエンスの多様な視点で考えれば、雨と人間の精神性はその時代ごとの雰囲気で暗かったり明るかったりするものでしかないのではと考えています。
 この文章を書いているいま、関東圏は大雪で、テレビでは「大変だぁ!」のノリでわいわい騒いでいます。都市機能が止まったなどと、「大変だぁ!」なのは分かりますが、大雪を敢えて愛でる視線は皆無のようです。上述した、子供っぽい善悪二元論に立つ大人(といっても、マスメディアで情報を送るプロなのですが)たちの視線から、私は少しばかり心をズラしています。中嶋雷太

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