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本に愛される人になりたい(51) エーリッヒ・フロム著「自由からの逃走」

 昨今、憲法論議や近隣某専制主義諸国の報道が多くなりましたが、そもそも論の「何故、ドイツの民衆がナチズムに傾倒したのか」に誰も興味が無いようです。
 その原因を問うたのが本書です。
 発行年が1941年ということも、考えねばならないかと思っています。
 簡単に言えば、与えられた自由が怖くて、何をすれば良いかも分からず、自分の言葉で考えることも捨て去り、威勢の良いヒットラーに酔うことで、わーい!と喜んだ人たちの塊が、ナチズムに傾倒し、ナチズムを支えたということです。
 さらに、昨今困ったことに、自由から逃げているのに、つまり個人としてゆっくりじっくり考えることを放棄しているのに、何かを発言したり、安易に政治家たちのことばを肯定する姿があちらこちらにあります。このパラドックスにさえ気づいていないのも、さらに困りものです。専制主義が好きならば、個人として発言してはいけないのに、何故だか、個人の考えとして(誰かの主張を借りているだけなのに)SNSとかに投稿したりする人がいらっしゃいます。
 私からすれば、それは狂気の沙汰でしかありません。
 「個人として考えて個人として生きよう」というのが、たとえば、1500年代初頭のマルティン・ルターだったり、それからおよそ100年後のルネ・デカルトだとして、それをベースに近代化が大きく勃興し、現在に至る資本主義経済が発展したのにも関わらず、それ以前の、つまり1500年代以前の「個人」という考えがない時代を、2020年代にもお持ちな人たちがいるのが、やはり不思議でなりません。
 自由であることは、一人一人が、自分の考えで生きてこそだと思っています。私は、自由闊達に生きたいと常々願っています。
 もちろん、自由なんかダメだという方もいらっしゃるでしょうが、ならば自由を捨てます!と言えば良いのではないでしょうか?誰も、怒りません。ただ、その先にあるのは、自分の子供や孫の世代が戦争に駆り出されたり、自由に本を読んだり、自由に音楽を奏でたり…できない時代です。
 と、いうことを、2023年の初夏に、言わねばならぬこと自体が、困ったことですね。中嶋雷太

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