今もし、私が涙を流すとすれば、あの頃私が散歩をしながら流した涙の味とは全く違う味がするだろう。
茨城県に来てすぐの頃、私はよく散歩をした。
今日、かなり冷たい風が吹いてはいるが、雲一つない晴天な空を見て、家の中が全く片付いていないにも関わらず携帯とイヤフォンをひっつかんで飛び出した、うきうきした私とは真逆の感情を持って。
2012年4月、私はそれまで住んでいた東京都葛飾区から茨城へ住民票を移した。理由は結婚だった。今まで一度も東京以外の土地に住んだことがない私は、当然ながら運転ができなかった。
当時私が住んでいたのは住宅地の一番端。だんだんと家がまばらになり、私のアパートを挟んで隣はもう、田畑と荒廃した土地が延々と続く。
その周辺を、20代半ばの女性がひとり、毎日とぼとぼ歩いているのだ。たまにすれ違う人も、運転している人もいぶかしんだに違いない。すくなくとも私はそういう被害妄想に取りつかれていた。
夫と自分、2人分の家事など一瞬で終わる。掃除や洗濯を終えたあと、もう夫が夜遅く帰ってくるまで、何もすることがないのだ。TVを見ても、映し出されるのはつい先日まで住んでいた東京の風景。あ、あそこのお店おいしそう!あ、このお店かわいい!行ってみたい!……あれ?ここどこだっけ?茨城?!えっ。総武線で40分で行ける新宿は……??錦糸町からバスですぐのスカイツリーは??
距離感に愕然とする。東京駅に行くのでさえ、この家から徒歩40分の高速バスのバス停まで行き、90分バスに乗ってはじめて着くのだ。
……遠い。あまりにも……。
だんだんと、私はテレビを見なくなった。
つらくてたまらなかった。話す相手は一人もいなかった。
もうろうとした頭のまま、無言で家を出る。
風が強かった。
毎日強かった。
髪の毛はぼさぼさになり、肌はかさかさになり、目はうつろになった。
私が散歩をしていたのは、散歩がしたかったからではない。
散歩でもしなければ、発狂してしまうと思ったからだ。
一番つらかったのは、そんな中でも鹿嶋市にあるハローワークに失業給付金の請求手続きに行かないといけないことだった。
地元発の公共のバスは1日5本程度。バス停までは何とか歩ける。しかし、給付金についての集合時間に間に合うようにと選んでいくと、開始時間まで2時間近く空き時間がある。
近くに時間をつぶせるような場所もなく、あっても空いておらず、空いていたとしても、入る勇気が微塵もない。
しかたなく、鹿島神宮に参拝に行き、行ったり来たりしながら時間をつぶした気がする。バス停のベンチに座ってPSPをしていたら、通りすがりの60代ほどの夫婦に、「バス待ってるの!?あと1時間は来ないよ!」と言われたが、愛想笑いをする元気もなかった。
何とか時間をつぶし、ハローワークの説明を聞き終え、帰ろうとしたが、案の定バスが来るまでに2時間もある。
私はまた、鹿島神宮をうろつき、神様に哀れまれ、神主さんからは怪しまれたであろう。
正直、家に帰ってから大泣きした。
母親に電話をすることが多くなっていった。
だが、母も愛知県で家を建てている真っ最中で忙しく、ほとんど相手にしてもらえない。そう、もう私は東京に行ったとしても、母に会うこともできなければ、実家というものも結婚と同時に失ったのだ。私の青春時代を過ごした家も部屋も何もかも、もうどこにも存在しないという事実が、ますます私の心のよりどころを奪っていった。
挙句の果てに母は、
「あんた結婚を逃げに使ったでしょう?そんな人に幸せがくるわけないじゃない」
と言い放った。
二の句が継げなかった。
プツンときれた携帯を見つめ、しばらく茫然自失に陥った。以前ならカッとなりすぐに反論し始めたはずだが、そんなエネルギーも残っていなかった。
ただ、妙に納得したことだけは覚えている。
結婚を逃げに使ったーー
幸せは来ないーー
私は人生のどん底だった。
はたから見れば「新婚ほやほやな幸せな人」だったかも知れない。
実際の私は空っぽで、空っぽなくせに、毎日毎日涙だけはでてくる、ただの涙製造機になっていた。
はっきりいってあの頃私は人間ではなかった気がする。
薬物とかやらなくても人は廃人になれるんだなぁと思ったほどだ。
今もし、私が涙を流すとすれば、あの頃私が散歩をしながら流した涙の味とは全く違う味がするだろう。
その後、私は少しずつ元気を取り戻していくのだが、
それはまた、別の日に。
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