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うしろのしょうめんだぁ~れ

  ぎゅっし、ぎゅっし、ぎゅうっし……。
 男はラッセルを止めた。
 サングラスを外して背筋を伸ばす。天空を仰ぎ見る。宇宙色の空が眩しかった。周囲は岩と雪と雪風の銀世界。氷峰の峰々。
 そして――、
 ぞっとするような静寂。白い空間を破ることができるのは風だけ。
 ひゅ~、ひゅる~。ひょ~、ひょろる~。
 せせら笑っているのか、咽び泣いているのか。
 風は気まぐれ。悪戯好き。無邪気な様を装って、実はとんでもない魔物だったりする。雪原にぽつんと立っている一匹の人間なんて、どうでもよくなったのだろうか? あれほど恐い目に遭わせておいて、随分と身勝手なモノだ。
 男は泣き出したいのを我慢して、氷のような空気を吸い込んだ。鋭い冷気が喉を刺す。
 今、自分は一個の点。動く点でしかない。そう思った。
 どうやらあの世に行くはずが、天国への階段から落ちてしまったらしい。どこに落ちたのか、着地点がいまいちわからない。ひょっとしたら、ここは地球という惑星ではないのかもしれない。
 途方に暮れてしゃがみ込む。
 まもなく――、
 男は背の側に、駒ちゃんがどっかり腰を下ろしたのを感じた。
「なぁ、茂ちゃん」
 駒ちゃんが言った。
「腹が減ったよな」
 男は無視した。
「俺のザックの中におにぎりが入っている」
 それでも無視した。
「まだ、怒っているのか?」
 男は無言で首を振った。
 昨夜も冷たい洞穴の中で駒ちゃんは同じ事を尋ねてきた。
 男が小さく呟く。
「おまえとは話さない」
「怒っているんだろ?」
 男は耳を塞いだ。
 駒ちゃんは勝手にしゃべった。
「そうだよな。あそこでおまえは左だと言ったのに、俺は強引に右だと言い張って連れて行ったものな。だから迷子になった」
 そうだ。男は心のうちで呻いた。
 昨日、二人は分かれ道に立ったのだ。分かれ道といっても雪に覆われていて、どこにも登山道など見あたらない。目印の赤い布がくくりつけてある棒が雪の中から突き出ているだけ。
 地図から見て、男は目印の左側を下るのが正しいルートだと考えていた。それを駒ちゃんは右だと言い張って突っぱねた。
 男はイライラと顔をあげた。
 夕べは吹雪で一睡もしていない。逃げ込んだ洞穴でも駒ちゃんはしつこかった。
 すぐ隣にもっと大きな洞穴がある。だから、あっちに行こうと誘うのだ。みんなも集まっているから行こう、と。酒もあるし、食料もある。第一、あっちの方が暖かい。
 けど、男は答えなかった。心を鬼にしてだんまりを貫いた。おまえとは口を利かない、そう心に決めて。
 背の側から、駒ちゃんが言った。
「おまえ、俺とパートナーになったこと、後悔していないか?」
 男は、はっとした。
 本気で言っているのだろうか?
 背の側の、駒ちゃんの顔までわからない。
 駒ちゃんは続けた。
「俺より体力も登山技術も上だと思っていただろう? 俺の失敗を望んでいただろう?」
 男は呻いた。
 それは本当だった。自分は駒ちゃんより実力は上だと思っていた。でも、山仲間がリーダーに選んだのは駒ちゃんだった。
「俺は分かれ道で右と言った、強引に。一方のおまえは冷静だった。右に行けば谷筋に出てしまうことを知っていたし、昨日の気象条件なら雪崩も予測できていたはずだ。けど、おまえは俺の泣きっ面を見たいがために反対しなかった。立ち往生する俺を見たいがために敢えて反対しなかった」
 駒ちゃんの言葉に、男は項垂れた。
「俺の強引さとおまえの冷静さ。切磋琢磨して、足して二で割ったらちょうどいい」
 親友の言葉に深く頷く。
 男は重い口を開けた。
「……でもな、おまえとはここでお別れなんだ。連れて帰れないんだよ。おまえは雪崩に巻き込まれて死んでしまったのだから」
 背の側の、駒ちゃんの気配がすっと消えた。


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