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使者のオーダー

 そのレストランは人里離れた秘境に佇む。店の名前は『レガーメ』。
 ここで提供される『星恋リゾット』はガイドブックでも紹介されたことのある名物メニューだ。シェフ紺野の自信と自慢の作であり、素材にも盛り付けにも趣向を凝らした定評のある一品である。
 その夜、一人の客がレストランを訪れた。
 一見の客である。
 黒いコートの表面はしっとりと雨露で濡れている。
 握られた蝙蝠傘から雨雫が滴り落ちる。
 外は雨。時計は10時を回っていた。
 もう客は来ないだろう。そろそろ閉めようか。ガランとしたホールに佇んでいたときに、重い樫の扉が開いたのだ。
 男が雨染みのついた帽子を取って「まだ間に合うかな」と尋ねる。不逞な輩ではないと安心したのは綺麗に剃られた頭のせいだろう。
 けれど――。
 こんな夜更けに。しかも雨だというのに。こんな辺鄙なところに。一人で。
 眉を顰める。
 思い当たる節がある。
 それでも彼は客人に対してシェフの顔をみせる。
「もちろんですとも」
 そう答えて客人から傘を預かるとコートを脱ぐのを手伝った。
 ふと甘い香の匂いが鼻をかすめる。おそらくコートから漂っているのだろう。
 おずおずと客人を席に案内する。
「こんな山奥まで……大変だったでしょう」
「ああ」男は俯いたまま曖昧に答える。「そうでもない」それからぼそっと呟くように。「前にも来たことがあるから」
 予想外の展開に紺野の方が焦る。
「そ、そうでしたか」いつの客か思い出せない。
 空回りする彼をよそに、客人が尋ねる。
「まだ、あるのかな? リゾット」
 紺野はホッと胸を撫で下ろした。自分の守備範囲だ。
「もちろんですとも。ご用意できます。食前酒に赤ワインは如何です?」
「ああ、頂こう」男は一度も顔をあげることなく答えた。
「はい」
 軽く頷き、キッチンに向かおうとして――思いとどまった。
「お客様、いつ頃ですかね。こちらにお越しいただいたのは」
 男は顔をあげることなく答える。
「忘れてしまったのか?」
「申し訳ありません。最近、物忘れが酷くて」
「だろうな」
 男が紺野を振り返る。光源に遮られ表情は見えない。
「あれから8年経っている。私が初めてここを訪れたのは8年前だ」
「8年……」
「実は、私はまだ君のリゾットを食べたことがない」
「……」
「なぜなら」
 男が立ち上がり、影から顔をみせる。
 直感的に、紺野はその先の会話を聞きたくないと思った。
「食べる前に、君が死んだからだ」
 紺野の手足から力が失せる。
「8年前この辺、一帯は土石流に流された。私は僧侶だ。毎年念仏をあげているのだが、雨の日に、ここらあたりから灯が見えるという者がいて……」
 彼はもう聞いていなかった。

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