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そんな難しい話じゃなくってね

小学生の頃におんなの子の中で流行っていた
「鍵付きの日記帳」
それがとっても可愛くって、文房具屋さんに行って買ってもらったの。

そこから「日記」というものがちょっぴり習慣になって
いつしか「日記」ではなくて「心の整理場所」になっていったの。

心の整理場所になるとね、
「ノートの可愛さ」なんてどうでもよくなってて
「ノートの書き味の良さ」に変わってて。
とにかく自分の頭のリズムと手のリズムとに軌跡の差があると
なんか心地悪くて。
だから、そのリズム感がばちーんと合うノートとペンが必要になったの。
それくらいにね、「日記」というものが
わたしの人生の一部にいつの間にかなっていたんだー。
総して何冊分くらいのものたちを書いてきたのか
わからないんだけど、
この「note」もなかなかの吐き出し口になってる。
気分的には手書きで書きたい時と、タイピングでブワーーーって書きたい時とあって、タイピングの時はここに書くようになっていて、そういう場になってくれてるの。ありがとうなんだよ。

はじめは誰にも知らされずに書きたいこと書いてたんだけど
最近わたしの大切な人にこのnoteの存在がバレてしまったの。
「えー隠してたのにー」っていったら
「リンク貼り付けてる時点で、世界公開してるよ🤭笑」って
笑って言っていて、「ああー、たしかにそうだー」って思ったの。

でさ、じゃあなんでリンクを貼ったのかー?と自分の内側の行動について
考えたの。
なんで貼ろうと思ったんだろうって。

今日はそのことについて書く。


わたしはずっとずっと、自分はいろんなものを吸収しやすい人間だなって
昔からなんとなく気づいていて、
だから吸収したものを全部自分の中に仕舞い込むのは
とてもしんどくなっちゃうから、
そこにノートというものを使って、わたしの脳の拡張機みたいになってもらってたの。

それから、物事には奥深い意味があることを知って、
そんなことを紐解いていくのが楽しくなってきて。
紐解いていくには、捉えているものを文字に変換してみて
構図を考えて、形が、線が、流れが、位置が、深さが、どのようになっているのかの図面を考えるのが面白くなってきて
それをノートに書いてるとどんどん紐解けてきて
あーーー面白いなーーそういうことかーーーって
自分だけの答えを紐解けるようなさ。
自分の宇宙の数学を解いているような、そのような文系数学の世界に
浸っている感覚が楽しかったの。
それがわたしの「書く」っていう時間。
いわゆるちょっぴり瞑想状態になってるのかもしれないよね。

それでさ。
もう何十年とそれをやってきて
三年前くらいのある時、ふと思ったことがあったの。

「わたし、孤独じゃん」って。!!!
急すぎないか?!と思うくらい、フッと冷めた時期があったんだよ。

1人でそうやって、内部分析するのを楽しんでたのに、
(しかも何十年も)
急に冷め切ったの。わたし、何やってんだ?って。!!!

でもね、冷めたんじゃなかったの。
それは自分にとってのステージアップの時だった。
「誰かと共有したい」きっとそんな心が芽生えはじめてた。
その合図だったの。

1人の世界でこもっていないで、
1人の世界だけで完結してないで、
共有の喜びを感じてみたい、味わいたいって
そんな好奇心のようなそんな芽生だったの、きっと。ううん、そうだった。

SNSのやる勇気もなくって、元気もなくって、
「誰かに何かを見せるためにSNSやる必要ってある?」って捻くれてて。。
でも、ほんとうは隠してたんだよね。

誰かと共有したいよって。

おはなし合う人と、おはなししたいよ。って。

でも、はじめから「そんな人きっといない」とか。
決めつけちゃってさ。
自分の世界を否定されたくないし、変なのって思われたくないからさ。
誰にもみられない、知られない、「ひとりのノートの世界」で完結していた。

でも、ある時からその皮からは、脱皮したのね。

脱皮したいって思ってる自分に気づいてあげれたからね。
それに従ってあげた。いいよーって。

だから、こうやってSNSが始められて
日記っていうものもとても自然な形で世界公開してた。笑
それを無意識でやってるんだもん、すごいや。って思った。
人間変わるもんなんだね。やっぱりだよね。すごいやー。


だから。
こうやってありのまんまの自分を出し切ってると
「ありのまんまの自分」とピタッと合う人との出会いがちゃんとある。

なーんも隠さなくていいの。ぜんぶぜんぶ出しっぱなし。
それでも不思議、そんな出しっぱなしの自分こそが相手にとっての「魅力」になってくれる。
そんなサイクル、生まれてこの方経験したこと、なかったよ。

だってみんなそうじゃない?
一生懸命何者かになろうとしてさ。
男の子は「かっこよくいようとか、強くいようとか、男らしくいよう」とか。
女の子は「嫌われないようにいようとか、可愛くいようとか、女の子らしくいようとか」なんかもうさ、言葉にすると無限に出てきそうなくらい
ありのままじゃないやつを、何枚も重ね着して生きてるじゃない?
だからどんどん体は膨らんでいくし、透明でなくなっていくし、なんか濁ってく。

それをずいぶんと生きてしまってから気づくじゃない?

わたしもそうだったよ。だから、苦しかった。
もー早く、透明になりたかった。
だって透明になっちゃえばさ、隠すもの、ないでしょ?
透明だからぜんぶ透けて見えちゃうんだもん。
どうぞー!みてー!ってやりたかった。。だって、もうなーんも隠したくないもん。

自分にできないことなんていっっぱいある。
いいじゃん、できなくたって。
でも、一生懸命できる自分に近づけていこうと奮闘してた時は
苦しかった。もうやだったー。
褒められるけどね。すごいじゃんって。でもね。
そういうの、もう、いらなくなっちゃったの。

自分は喜んでないもん。
できるようにならなくていいものを、
一生懸命できるようになろうとしてる自分がなんか惨めだったの。
なんのために頑張ってるー?って。
「他人の評価」のために頑張る自分がもう似合わないって思ったの。
あなた、それ違うよねーって。あなたじゃないねーって。

できない自分を出すのは怖かったよ。
いっぱいできないんだもん。でも。
わたしはそこに勇気の力を使って、「できないの、助けて」っていえた。

そしたら、気づいた。
助けてくれる人ってたくさんいたってこと。

そこで知ったの。
助けてもらえないんじゃなくて、
自分が誰かの助けから逃げてた、受け取ろうとしてなかった。
そうやって心開いてね。正直に生きれば生きるほど
ちゃんとお助けとなる人がピターんと人生で出会うようになってる。

その人らと出会うにもまずは自分だー。

ありのままを曝け出す、つくりものの自分を出さない勇気
その勇気で生きるには
まず自分を自分で恥じないこと。
恥じてる自分がいるならば、なぜ恥じてるのか、わかってあげること。
恥ずかしがる自分に寄り添ってあげること。
そして、大丈夫だよ、恥ずかしくないよって教えてあげること。
そして最後は、恥ずかしいと大丈夫を調和させていくこと。
そうやって、「勇気」を育ててゆくの。
そうすれば、
自分を曝け出して生きていけるよ。
わたしはそうやってきたんだー。


だからね、とっても今しあわせなんだ。
すっごく楽に生きてるんだー。

そして、そこで出会う人はみんなやさしいの。

涙が出るくらい。
みんな、やさしい。

人間のやさしさに触れて生きられてる。
だから、とってもうれしい。
いきてるって楽しいなって幸せだって、
毎日そう思うんだよ。

些細なこと、ちっちゃなこと、そんなことがね
大きなことに感じれるの。
感度が上がっていくの、いろんなことに。

だから、会話が、どんどん繊細になってくの。

普通ならば気づかないであろうことを
お互いに気づいて、それが会話になるの、そういう会話になるの。
その会話が繊細で清らかで、心地いいの。
すっごく微細な粒子。その空気。それが言葉になる。

愛情しかなくって、嬉しくなるの、一言一言が。

だからもっと言葉が好きになったの。
嬉しい言葉をたくさん浴びられるから、
浴びさせていただけるから、
発することができるから。

そうやって、人生の歯車が周りはじめた、目がね、ぱっちりと開いてさ。

歯車ってひとりでは回せないのね、両輪あってはじめて回り始める。

それがお友達でも、親子でも、恋人でも。。
いろんな歯車がある。
一個一個それぞれの歯車を大事に育てていってね。

互いの愛を回しあって、生きてる喜びを感じていくんだー。

今はね、触れられないけど
でもずっとずっと心にいて、いっつも幸せを願っているんだよ。
今日も大切な人がおだやに眠れますようにって。

そのお願い事で、今日も楽しく生きられそうだよ。



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