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『赤毛のアン』読了

旧ブログから引っ越し
L.M.モンゴメリー著
掛川恭子訳
講談社文庫Y800
(完訳クラシック赤毛のアン 1)
H300409~H300419

 大学生のころ、最初に読んだ『赤毛のアン』は村岡花子訳だったと日記に書いてある。当時の文庫本は残っていないが、こんなに分量はなかった。後に完訳版ではなかったことを知った。五十代で集英社文庫版で読み返してから、続けて『アンの青春』『アンの愛情』と進んだのだが、更に後続を読み進めたくなり、講談社文庫の(完訳クラシック赤毛のアン〉シリーズに乗り換えた。同シリーズの4~10を読み終えて、今回1に帰って来たことになる。『赤毛のアン』は三度目か、もしかしたら四度目になると思う。
 掛川さんの訳出は読みやすさでは一番だと思う。書き写してみると、ひらがなが多用されていることがわかる。ただ、松本さんの訳にも味わいがある。それは「原文にしたがい、児童文学としてではなく、大人の観賞にたえうる小説として訳した」(松本侑子訳集英社文庫版のあとがきより)という松本氏の姿勢によるものだろう。
 今は4月。春はこの作品を読むのにぴったりの季節だ。アンが最初にマシューに向かって話し出す、その中で、もし今夜迎えにきてもらえなかったら、近くの桜の木に登って夜を明かそうと思っていた、と言うくだりがあるのだ。「あそこなら怖くないから。お月さまの光の下で、真っ白なサクラの花に包まれて眠るなんて、すてきだと思わない?」と。その後、グリーン・ゲーブルズまでの道のりで、並木道に通りかかり、枝を伸ばしたリンゴの木の花にすっかり魅了されるアンの姿も印象的だ。並木道は〈喜びの白い道〉と名付けられる。
     ♪
「知りたいことがいっぱいあるって、すてきだと思わない? 生きてることがうれしくなっちゃう――こんなにおもしろい世界に生きているんですもの。なにからなにまですっかりわかっていたら、半分もおもしろくないんじゃないかしら。想像の広がる余地がなくなっちゃうもの。」(37頁)
     *
「ああ、カスバートさん、今わたしたちが通ってきたところ――あの白いところ――あそこはなんなの?」女の子は小さな声でささやいた。
「その、なんだ、〈並木道〉のことをいってるんだろうね」マシューはしばらく必死に考えてからいった。「確かに、ちょいっときれいだ」
「きれい? きれいなんて言葉じゃだめ。美しいもだめ。両方とも、十分いいあらわしていないわ。ああ、すばらしかった――すばらしかったわ。想像力で補う必要のないものを見たの、これが初めてよ。ここがいっぱいになっちゃった」
 女の子は片方の手を、胸にのせた。
「このへんが、きゅっと痛くなって。でも、気持ちのいい痛みなの。そういう痛みを感じたことある、カスバートさん?」
「その、なんだ、どうだったか、思い出せないね」
「わたしはしょっちゅう感じるわ――すばらしく美しいものを見たときは、いつもよ。でも、あんなすばらしい場所を、ただの〈並木道〉だなって。そんな名前、なんの意味もないじゃない。ちゃんとした名前をつけてあげなくちゃ。ええと……〈喜びの白い道〉。想像力にあふれた、すてきな名前でしょ。」(43頁)
     *
「今朝は、おなかがすいてるわ」マリラが出してくれた椅子にすわりながら、アンがいった。「昨日の夜みたいに、この世は嘆きの叫びに満ちた荒野だとも思わなくなったし。お日さまの照っている朝でよかった。雨の朝も大好きだけど。どんな朝でも、朝ってわくわくするでしょ。その日どんなことが起こるかわからないんですもの。想像力の広がる余地が、いくらでもあるのよ。」(67頁)
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だしぬけにアンがすり寄ってきてマリラのがさがさの手の中に、小さな手をすべりこませた。
「あれは自分の家なんだって思いながら家に帰るのって、すてきだわ。わたし、グリーン・ゲーブルズが、もう大好きになっちゃった。今まで好きになったところなんてなかったのよ。自分の家だと思えるところがなかったから。ああ、マリラ、とっても幸せよ。今なら、ちっとも苦労しないで、お祈りができるわ」
 小さな手を握っているうちに、なにかあたたかい、心地よいものが、マリラの心にわきあがってきた――(140頁)
     *
「あの子のいいところは、けちでないことですね。ほっとしましたよ。欠点にもいろいろあるけど、けちな子ほどいやなものはないですからね。まったく、あの子が来てからまだ三週間にしかならないのに、ずっと大昔からいるような気がする。あの子のいないこの家なんて、考えられませんよ。だからいっただろうなんて顔、しないでくださいよ、マシュー。」(162頁)
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「ああ、マリラ、楽しみの半分は、それを待っていることにあるのよ」アンは声を張りあげた。「楽しみにしていたものは、結局は手に入らないかもしなれい。でも、待ち焦がれることはできるわ。リンドのおばさんは、『期待せざる者は幸いなり、失望せざればなり』っていうわ。でも、なにも期待しないより、期待して失望したほうが、はるかにましよ」(170頁)
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「そのブローチ、ちょっと持たせてくれる、マリラ? 紫水晶って、やさしいスミレの魂かもしれないわね?」(171頁〉
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「なんてすばらしい日なのかしら!」アンは胸いっぱいに空気を吸いこんだ。「こんな日に生きていられて、よかったと思わない? まだ生まれていなくて、今日という日を知らない人って、気の毒ね、ほかにもすばらしい日葉あるでしょうけど、今日という日は、ほんと、今日だけですもの。それに、あんなすてきな道を通って学校に行けるんですもの、すてきな日がもっとすてきになるわ」(188頁)
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「マシューは馬車に馬をつけて、カーモディーのお医者さまを呼びにいったのよ」アンが急いでフードのついたコートを着ながらいった。「いわれなくてもわかるの。マシューとわたしは〈相呼ぶ魂〉だから、説明してくれなくても、マシューが何を考えているかわかるの」(253頁)
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「どうしてこうなんでしょう、リンドのおばさん?」
「それはね、あんたが不注意で、やみくもに突進するからですよ。まず考えてからってことがないんだから。こういいたいとか、こうしたいとか思ったが最後、前後の見境無く、いったりしたりしてしまうでしょうが」
「あら、でも、そうするのが一番だわ」アンがいいかえした。「なにかすばらしいことがぱっとひらめいたら、すぐその場で吐きださなくちゃ。考えていたら、しぼんで消えちゃうでしょ。そんなふうに感じたことありません?」(278頁)
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「ベル校長先生のことをそんなふうにいうのは感心しないね」マリラが厳しくいった。「とてもいい人なんだからね」
「ええ、そりゃ、いい人よ」アンも認めた。「でも、いい人でも、それをちっとも喜んでいないみたい。わたしだったら、いい人になれたらうれしくてうれしくて、一日じゅう踊ったり歌ったりしていると思うわ。ミセス・アランはもう大人だから、踊ったり歌ったりはむりね。それに牧師さんのおくさんじゃ、そんな軽々しいことはできないでしょうし。それでもミセス・アランを見ていると、クリスチャンなのを喜んでいるのがわかるし、たとえクリスチャンでなくても天国に行かれるとしても、やっぱりクリスチャンになるのがわかるの」(305頁)
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 アンはドレスを手にとると、畏れ多いものでも見るようにだまりこくっていた。ああ、なんてきれいなんだろう! 光沢のある絹の、すばらしく柔らかな茶色のグローリア織、しゃれたフリルとシャーリングつきのスカート。最新流行の釜屋かなピンクタックで飾られた身頃。薄いレースのひだ飾りのある襟もと。
 でも、袖――最高にすばらしいのは袖だ! 肘から下の長いカフス。そしてその上に、うっとりするほど美しいパフスリーブがのっている。真ん中をシャーリングして、その上に茶色の絹のリボンを飾った、二段重ねのふわっとふくらんだ袖だった。((355頁)
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 マリラが部屋から出ていってしまうと、いつもの自分の隅の席でだまって聞いていたマシューが、アンの肩に手をのせた。
「ロマンチックなことを、全部忘れてしまうんじゃないよに、アン」マシューが恥ずかしそうにささやいた。「少しだけなら悪くない――度が過ぎては困るがね。だが、少しだけはとっておくんだよ、アン、少しだけは」(402頁)
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 アンは暖炉の前の敷物にあぐらをかいてすわりこんで、赤々と燃える炎を眺めていた。カエデの薪にためこまれていた百年分の夏の光が、今目の前で、おどりながら燃えているようだった。本を読んでいたのだけれど、肝心の本は床にすべり落ちたままで、半ば開けた口もとに微笑みを浮かべて、夢の世界に遊んでいた。(420頁)
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「これで今まで以上に、勉強がおもしろくなるわ」アンが幸せそうにいった。「だって、人生に目的ができたんですもの。人間はだれでも人生の目的を決めて、それにむかって進むべきだって、アラン牧師もいっていたわ。ただし、それが本当に追求する価値のある目的か、初めによく考えなくてはいけないって。ステイシー先生のような先生になりたいと思うのは、追求する価値のある目的よね、マリラ?」(429頁)
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「また力いっぱい勉強したい気になったわ」屋根裏部屋から教科書をとってきたアンがいった。「ああ、わたしのなつかしいお友達のみんな、またみんなに敢えてうれしいわ。そう、あなたもよ、幾何さん。本当に文句なしに、すばらしい夏だったわ、マリラ。今は、元気いっぱいで競争に出ていく、たくましい若者の心境よ。」(441頁)
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 マリラは信じられないというようにいったが、すぐそのあとで、思わずため息をもらした。アンの背が伸びたことが、妙に恨みがましかったのだ。マリラが愛した小さな女の子はどこかに姿を消してしまい、代わりに眉に思慮深さをたたえた顔をつんとあげて、真剣な目をした、背の高い十五歳の少女が現れたのだ。マリラは小さな女の子を愛したように、この少女のことも愛していたけれど、なにかを失ったような気がして、妙に悲しかったのだ。(446頁)
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「この窓が、お日さまが昇ってくる東をむいていてうれしいわ」アンがダイアナのそばに立った。「むこうに連なっている丘の上に朝日が姿を見せて、とがったモミの梢をとおして輝きはじめるのを見ているのって、それはすばらしいのよ。日々常に新たなり、よ。朝日を一番に浴びて、魂が洗われるような気がするの。ああ、ダイアナ、わたし、この部屋が大好きなの。来月、町に移れば、この部屋ともお別れでしょ。そうなったら、どうやって暮らしていけばいいかわからないわ。」(472頁)
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 ああ、やっとまた外に出られた! 清らかに静まりかえった夜は、なんとすばらしいのだろう! あらゆるものが偉大で、静寂で、驚異に満ちている。夜のしじまをついて、海がささやきかけてくるし、黒い崖は、恐ろしい巨人たちが魔法の国の海岸を守っているようだ。(480頁)
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「わたしたちだってお金持ちよ」アンが胸を張っていった。「十五年間、だれに恥じるところもなく立派にやってきたし、女王さまのように幸せだし、多少の差はあるけれど、想像力にも恵まれているんですもの。ほら、海を見て。銀色の光と影の世界、目には見えないものをたたえた世界よ。何百万のお金があっても、ダイヤモンドのネックレスを何本持っていても、海はこれ以上美しくなってくれるわけじゃないでしょ。たとえ代われても、あそこにいた人たちと代わりたいなんて思うはずないわ。」(481頁)
「わたしは自分以外の人にはなりたくないわ。一生、ダイヤモンドになぐさめてもらえる身分になれなくても」アンがきっぱりといった。「模造パールのネックレスをした、グリーン・ゲーブルズのアンで十分。マシューはこのネックレスを、あのマダム・ピンクの宝石に負けないくらいの愛情をこめて、わたしに贈ってくれたんですもの」(482頁)
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「その、なんだ、あの子も甘やかされてだめになるようなことはなかったわけだ」マシューは得意そうにつぶやいた。「ときどき横合いから口を入れてきたが、あれもたいして邪魔にはならなかったようだな。あの子は頭がいいし、きれいだし、情が深い。この情が深いというのが、ほかの全部を合わせたより大事なことだ。あの子は天のお恵みだ。スペンサーのかみさんは間違いをしでかしたが、あんな幸運な間違いもない――運がよくてこうなったのだとしたらだが、いいや、運などというものじゃないな。神さまのご意志だ。神さまが天上からごらんになっていて、あの子をお遣わしになったんだ」(486頁)
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「でも、今の正直な気持ちをいうと、グリーン・ゲーブルズの下の窪地では、スミレが紫色の花をつけはじめているし、小さなシダが〈恋人の小道〉で頭をのぞかせているとわかっているから、エイブリー奨学金がとれるかどうかなんて、どうでもいいの。やるだけのことは、精一杯やったんですもの。戦うことの喜びという意味が、ようやくわかってきたわ。努力して勝利をおさめればなによりだけど、努力して敗れるのも、なかなかのものよ。」(503頁)
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 アンだけは話も耳に入らない様子で、窓辺に頬杖をついて、都会の部屋や尖塔の上に広がる、すばらしい大ドームのような夕焼け空をうっとり眺めながら、若者独特のどんなものでも可能にしてしまう黄金の糸で、将来の夢を紡いでいた。前途に待ちかまえているバラ色の可能性がひそんでいる世界は、すべてアンのものだった。一年一年は可能性のバラであり、そのバラを編んで、不滅の花冠を作りあげるのだ。(503頁)
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「その、なんだ、男の子が一ダースいるより、おまえひとりのほうがいいよ、アン」マシューがアンの手をとって、やさしくなでた。「よく覚えておおき――男の子が一ダースかかっても、おまえにはかなわないんだよ。その、なんだ、エイブリー奨学金をもらったのは、確か、男の子じゃなかったろう? 女の子だったよ。うちの子だ。わしの自慢の、うちの子だよ」(513頁)

"Well now, I'd rather have you than a dozen boys, Anne," said Matthew patting her hand. "Just mind you that--rather than a dozen boys. Well now, I guess it wasn't a boy that took the Avery scholarship, was it? It was a girl--my girl--my girl that I'm proud of."


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 けれど床についたときには、アンの唇には微笑みが浮かんでいたし、心はおだやかになっていた。自分がしなくてはならないことに、勇気をふるって真正面から対決し、ついに見方にしたのだ。心を開いてあたれば、義務も友になるものなのだ。(529頁)
♯既にマシューを亡くしている。目の具合が悪化したマリラをなだめて、床につかせた後、アンはレッドモンド大学には行かずに学校で教えようという決断をする。
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「クイーンを卒業したときは、未来がまっすぐな一本道のように、目の前にどこまでものびているようだったわ。どんなことが起こるか、先のほうまで見通せると思ったくらいだった。
 でも、今その道には、曲がり角があるの。曲がり角のむこうになにがあるか、今はわからないけど、きっとすばらしいものが待っていると信じることにしたわ。それに道が曲がっているというのも、またなかなかいいものよ、マリラ。あの角を曲がったら、その先はどうなっているんだろうって思うもの。緑に輝く森や、柔らかな木もれ日や、木陰があるかもしれない――見たこともない景色が広がっているかもしれない――初めての美しい世界に出会うかもしれない――その先どこまでも、曲がりくねった道や丘や谷間がつづいているかもしれないって」(533頁)

When I left Queen's my future seemed to stretch out before me like a straight road. I thought I could see along it for many a milestone. Now there is a bend in it. I don't know what lies around the bend, but I'm going to believe that the best does. It has a fascination of its own, that bend, Marilla. I wonder how the road beyond it goes--what there is of green glory and soft, checkered light and shadows--what new landscapes--what new beauties--what curves and hills and valleys further on."


     *
 クイーンからもどってきた夜ここにすわったときとくらべると、アンの地平線はせばめられた。それでも、目の前にのびている道が狭くても、道ぞいに静かな幸せの花が咲き乱れていることを、アンは知っていた。まじめに働く喜び、価値のある志を抱く喜び、気の合った友達を持つ喜び――そのどれもが、アンのものになるのだ。アンが生まれながらに持っている想像力や理想の夢の世界は、だれにも奪うことができないのだ。それにこの道にはいつだって、そのむこうになにが隠されているかわからない、あの曲がり角があるのだ!
「神は天にあり、この世はすべてなにごともなし」
 アンはそっとつぶやいた。(541頁)


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