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大切なものを得ること、それは喪失の物語の始まり。

混雑している通勤電車の中で、私は迷っていた。
どの曲を聴こうかな。
かつて通勤電車は仕事のプレッシャーで腹痛に耐える30分だった。今では、たくさんの曲を聴ける、楽しみな時間になっていた。こんなワクワクする気持ちは久しぶりだ。

「7人のメインダンサーと2人のバックボーカル」で構成される超特急には多彩な楽曲がある。スタイリッシュな楽曲、元気になる曲、ちょっとコミカルな曲。楽曲の良さにも夢中になる。

車両の隅に押し込めてられて、車窓からあふれる新緑の山々を眺めながら考えていた。超特急に深く、深く夢中になっていくと同時に感じる戸惑いの正体はなんだろう。

「年甲斐もなく何やってるの」とヤジが聞こえてきそうな状況だからなのか。違う。40歳を過ぎた私はもうそんな事を言われたとしても、恥ずかしがる年頃は終わっている。

どうしてだろう。


駆け抜けた30代が終わるときに、病気になった。
結果として大したことは無かったが、生まれて初めての入院と手術に少し人生の終わりを意識した。その時「好き」だと心が惹きつけられる物が少なく、すでに所有するものの中でも、手元に残しておきたい大切なものがわずかだった事に気がついた。

20代は多分に漏れず、高級ブランドの服飾品に憧れた。今思えば、それが欲しかったのではなくそれを持つ「自分」が大事だったのかもしれない。

30代になると、その気持ちが消滅してしまった。
周りから自分がどう見られているかの重要度が下がった結果だった。

40代を迎えた時に、長い時間を共に生きることができるものが基準になった。炊飯器は土鍋になって、フライパンは鉄になった。


大切なものを失うことが恐いのだ。
生き死になぞという大げさなことではない。

物はいつか壊れてしまう。
今、という時間は二度と戻ってこない。
人は永遠ではない。

20代で目に見えない何かと戦っていた不器用な自分も、何かを「大切だ」と夢中になった気持ちすらもいつの間にか失った。眠る時間を削っても平気だった、体力ももう無い。失ってしまった。ただ、それが寂しかった。

自身を取り巻く環境が変わり、体が変わるから仕方がない事。満開の桜と同じで刹那的だからこその美しさがある。それでいいのだ。ただ、私はその気持ちや時間が大切であればあるほど、その喪失の想いが同じ量だけ積み重なってしまう。

そして、行き着いた先は、いつか失うぐらいなら大切なものをもう増やしたくない、だった。

あぁ、だから私はのめり込む様に夢中になっていく事が恐いのだとぼんやりと心の輪郭を感じた。


できれば永遠に続いてほしい。
でも、いつか終わりを迎える。
どんな終わりかわからない。

でも、きっと後悔はしないだろう。私にとってかけがえの無い記憶となる。この喪失への想いも私の大切な一部だから。

私のイヤホンからは「Billion Beats」が流れていた。
一緒に刻もう。
たとえ、いつか終わりが来るとしても。

#超特急 #Billion Beats


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