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何者かになりたい病について私なりに考えてみた。

私の好きでよく読ませていただくnoterさんのイトカズさんのいつかの記事〝何者かになりたい病〟というワードにドキッとし、「自分にもそういうところがあるんです」と吐露した私のそのコメントに対していただいたイトカズさんのコメントの問いかけについての記事をいつか書いてみたいと思っていたので、今日はそのことについて書いてみようと思う。


その記事を読んだ後も数日、私の中で改めて「何者かになりたいって私は何になりたいっていうんだろうか⁇」という問いかけは続いていた。

いつものように頭の中で考えているだけじゃ考えもごちゃつくだけなので、ノートにいろいろと思いつくままに書き出してみたりしたのをなんとか記事としてまとめてみたい。


こんなことを晒して書くのはちょっと恥ずかしいけれど思い切って書いちゃうと、私は世間で起こっているニュースや周りの人のことにも言い切りはしないけどあまり興味がないし、どうでもいいと思ってしまうところがある人間のようだ。

この前までやっていたパリオリンピックにもあんまりのめり込むほど興味がなくて、世間で何が起こっているのかほとんどTVもあまりニュースも見ないほうなので、そこは自分でもあまりに世間に疎くて世間ズレしているのはマズいなあとは思ってはいるが、やっぱり関心が外より内に向きがちな自分ていうところがどうしてもあるなぁ💦と感じる。


内に渦巻く思考というか、人間の内部の吐露のようなコトバや思いや考えが綴られた文章を読んでボーッと考えたりすることが無性に好きだなってつくづく思う。
話し言葉より書き言葉にグッとくるところが私にはあるから、どうしてもそれに酔ってこもりがちな、どちらかというと陰気なたのしみを持つ私なのだ。


こうしてとりとめもなく、こういうお題に沿って自問自答してノートに書いてみるっていうことも一人時間の何よりものたのしみであるから、
取り込んだままの洗濯物が山になっていても、キッチンのシンクに片付けが溜まっていても、掃除の行き届かない水廻りや窓拭きや、モノの多さやそんな生活感のものを放置してても、また、これをしといた方がいいんじゃないかと思っての前倒しに先手を打ってやってしまうような聡明さが私にはなくて、こういうノートに書きながらの思索タイムを優先しがちな私である。


かといって特別文才があるわけでも、何かに秀でた特質があるわけでもなさそうな私であるが、『何者かになりたい』っていう気持ちがどこかに昔から漠然とあるなんてことを、ここで初めて自分以外に公開するなんて実はとても恥ずかしい😓

私のコメントに対してのイトカズさんの問いかけはこうだ。



私のそれはただ漠然と何者かに‥なのか⁈


何らかのこうなりたいという目標みたいなものはある。
抽象的でもなんとなくは明確になっているとなおよしなのだろうが、私のそれはとても抽象的ではある。

⚪︎クリエイティブでArtisticな自分なりの表現手段を持つ人になりたいとずっと思ってきたし、若い頃からそういう人に憧れを持つ自分を感じている。
絵心はないし、すごく服が好きというファッショニスタではないが、自分なりのおしゃれ心が満たされるような配色だったりバランス感やサイズ感やコーディネートだったりは気にしたい。

⚪︎ミニマリストとして本質的に生きたいと思っている。
私にとっての本質的な要素として
➀書き書き(読書と思索含む)と
➁毎日の家事の大切さ
を思うので、そのバランス感かなって思う。

⚪︎洗濯は趣味になりうると思ったりするほど洗剤の種類もいろいろ試してみたいのはあるし、だからといって家事が趣味になるほど家事をすることが好きなわけではないし、そんなに家事ばっかりもやってられないと思ってしまう私もいる。

⚪︎ヒマさえあれば紙のノートを開いて、書き書きをしたいと思ってしまうタイプなので、読みながら考えたり、書きながら考えるのはキリはないけど、これはちゃんとペース配分として私の大事な時間の過ごし方として確保するのは絶対なんだと感じる。
ボーッとしててもよくって、むしろそういうふうにする時間は毎日必要というか持ちたいと思う。

⚪︎音楽を聴くことと音楽サブスクAWAでその時の気分でプレイリストを作ってその時の気分をアーカイブするということを2016年から好きでしていたら、気づいたらAWAも公開しているプレイリストだけでも74プレイリストになっていて、お気に入りしてくれる人も30人くらいいて、私の大事な表現手段の一つになっている。

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noteのアウトプットもそんな感じでぼちぼちと綴っていったらそこが私の大切な表現手段の居場所(=サードプレイス)になっていればいいな。
結局、noteの記事の投稿も自分が出さなければ、反応もフィードバックもいただけないわけで、それが私が望むクリエイティブな表現手段になりうるなら、ある意味読まれたいとか、読まれなくて悲しいとかよりもまず、私のペースで頻度は高くないかもしれないけど、書いて出すをし続けることが、私にとっての何者かになりたいに近づける具体的な行動の1つであるような予感はしているから、それに向かってがんばることはすごくいいことなのかもしれない。

最後に『本当は自分はどうしたいのか』って考えてみた時に、結局こういう内向的で引っ込み思案なモヤモヤ思考の持ち主の、あまりイケてない自分じゃまだまだこのままじゃ終われないし終わりたくないじゃんって思ってるところがあるから、漠然と何者かになりたいと憧れる自分なのかもしれないなと思ったりした。


クリエイティブでartisticな衝動がきたらどんな小さなことでも従ってやってみるっていうのは今までもアレコレその時その時で何かを作ってみたり、自己表現らしきものを自己満足程度にはやってきたとは思うんだけれど、それによって別に何者かになれた訳でもないし、やっぱりどこまでも私はフツーの人だ。

でも漠然と何者かになりたいのになれてないと感じる50代の自分でいつまでもいるより、今の気持ちを大切に、なんでもない日常生活も何よりも大切に思う自分がいると同時に、その時どきでやりたいと思ったことはなんでもやってみようと思える連続の日々がしあわせなのかもしれないとも思えた。



今回はめっちゃ長文の投稿になってしまいました😅