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物を書くっていったいぜんたい。なぜなの?ーその1ーマンガとわたしの長い付き合いから。


何かしら胸に灯るものがなければ、わざわざ文章を書くことはできない。

わたしは、プロのライターになりたいとか物書きになりたいとか希望したことは一度もなかった。

10歳の頃から、夢はただ一つ。心からなりたかったのはマンガ家で、マンガばっかり読んで一人で描き散らしていたが、ついにとうとう一本の投稿作品も描くことなく、23歳で諦めた。マンガを描かざるマンガ家志望だった。

そこから夢をなくしてぼんやりと生きていたが、たまたま北海道新聞の文化部に知り合いが在籍していて、新しく始まったマンガコラムの書き手を求めており、指名していただいた。30歳、何の能もない女だったが、マンガ読みの量と蓄積だけは人並み外れていたのは確かだった。

初めて新聞に書いたコラムは、萩尾望都先生『トーマの心臓』だったと思う。下の娘を生んだ病院のベッドで書き込んだ記憶があるんだよなあ…。なんでこんなとこでこんなことしてんの?みたいな😅

萩尾マンガは、わたしの人生の最も大事な灯火のようなものだから、ものすごく真剣に書いた…はずだ…。

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昔の文章は、ほとんど何も残してないのですが、このコラムのはファイルになってる。懐かしいなあ😀 読み返してみると…ダメだこりゃって感じっすね。

大体、800字のコラムに言いたいことは、一個、ぎりぎり二個しか書けない。言いたいことがあり過ぎて何も言えてないの典型的な文章だ。でもここから、本当の意味でのわたしの文章修行が始まる。お金もらいながら修行できたなんて、幸運なことでした。

マンガを選び、一つ二つだけしか言えない大事なことと、コラムの主題である季語感をどこで合致させるか。夢中になって読んで書いて、だんだん思うように書けるようになってきて、紹介したマンガ編集者の方からわざわざ御礼のお手紙を頂いたり、ものすごく楽しかった。

マンガ家にはなれなかったけれど、マンガの話を書くことができる。これは天職なのだ!くらいに思い込んでいた。自分、小学4年生からずっと「わたしはマンガだ」もしくは「マンガはわたしだ」とアイデンティティを設定してたんで。

全てのマンガを読むことも知ることもできないし、語ることもできないけれど。両手を天まで伸ばして、降ってくる何事かをキャッチする。敏感に響く。「これがわたしのマンガだ」ってわかる。理屈じゃない。頭の天辺から指先までびりびり伝わるーマンガとわたしは通じ合っているー愛し愛されているー感覚があった。

激しくぬかるんだ思い込みと言えばそれまでですが、そのような感覚があるかないかって、きっとわかる人もいるんじゃないかな。マンガでなくてもさ。

それから「マンガ評論家」になるべく道を定め、人生稀に見る努力をした。マンガを読むのは当然のこと、文芸評論、映画評論、マンガ史の勉強、歴史の勉強…なんであれ「評論家」てのは、誰よりも勉強しないとならない。本はたくさん読みました。文章もいっぱい書いた。

学生時代から仲がよかった阿部幸弘さんの奨励賞受賞に強く影響され、ガロマンガ評論新人賞に応募、3年がかりで、選評、選評、佳作と段を登ってやっとの思いでデビュー。33歳。

その後、日経新聞の夕刊でコラムをもらい、読者欄に自主投稿して採用された競馬雑誌「ギャロップ」で競馬マンガを紹介、週刊連載の大変さを知った。

そして、当時のわたしは、誰も知らないから言うけど、日本一の「やおいマンガ」におけるプレゼンターであった。今でいうBLマンガだ。93年ごろは、耽美、少年愛、ジュネ、やおい、BLと多数の名称で呼ばれる群雄割拠の時代だったが、とにかく大好きで読み込んでいた。

今をときめく、よしながふみ(『昨日、何食べた?』)今市子(『百鬼夜行抄』)雁須磨子(『明日、死ぬには』)羽海野チカ(『3月のライオン』)などなど、素晴らしいマンガ家が、次々と誕生していく間際を、同時進行で見続けていた。

彼女らは、絶対に読者を獲得できるし、停滞しつつあった少女マンガをきっと変えてくれると確信できた。しかし、当時は圧倒的マイナージャンルだし、女のマンガ評論家は少なく、わたしは勝手に使命感に燃え、日経新聞、北海道新聞、女性誌、ムック本、機会があれば、すかさず彼女らのマンガを紹介していた。よしながふみ先生のデビュー作をリアルで読んで、デビュー単行本も紹介しました。人生唯一の自慢です〜〜〜。

のちにその確信は、見事に結実となるわけですが。とにかく、当時は、自分のマンガ選びに迷いがなかった。勘が外れたことないんで、そのまま突っ走っていたというか。

しかしやがて息切れしてくる。マンガの紹介にしろ評論にしろ、勉強しなければ書けないし、知れば知るほど知らないことは膨大になっていくという、真実に気がついてしまう。資料を集めれば集めるほど足りないものがわかる。書けば、書くほど己の欠損が見つかるようになってしまう。それは、実際、物書きとしての進歩なのだけれど。

山を登ればまた山があり、さらに登ればさらに高くなる。その頂きは、はるかに遠い…。どこまで行けばいいんや…。

新刊マンガを追い求めるのにもだんだん疲れてくる。仕事だからとマンガを読むことが楽しいだけではすまない。プロってそういうもんだよ。あんた仕事してんだからさ。と今のわたしなら叱咤するけれども。当の自分には、暗雲が立ち込めるところに、重なるように大きな仕事が入っていた。

『BSマンガ夜話』って覚えてますか? 民俗学者の大月隆法さんが司会で、夏目房之介先生やいしかわじゅん先生がレギュラーでマンガについて語りまくる番組。

そのムック本というか書籍版が出ることになり、番組に出演していたマンガ文筆家村上知彦さんのご紹介もあり、なんと少女マンガについての連載が決まった。12回連載。『風と木の詩』(竹宮恵子)を発端とする、表やおいの歴史(裏は同人誌から語らないとならず難しかった)と現在を書ける機会を得たのである。

その上に、関連本、萩尾望都特集でも1本、『ポーの一族』について書くことになっていた。わたしの人生を変えた、最も大事なマンガ。子どものわたしが、ただ愛したエドガー・ポーツネルについて。書いてもいいんっだって!?

舞い上がる気持ち。今でも舞い上がりそう。

でも、その文章は、書かれることはなかったのだった。

『BSマンガ夜話』ー『愛という名の魔法』は、連載第1回で止まった。

編集者と出演者の間での連絡の不手際があり、詳しいことは不明のままだが「番組以外の企画が多いのはおかしい」と抗議があり、企画物は問答無用で打ち切られ、以降は番組内容を踏襲する形に変わって発行された。

萩尾マンガの件もたち消えとなり、両方担当してくれていた編集者の女性は、まだ若く泣きながら謝ってくれた。彼女のせいじゃないのに。

わたしもまた何の力も考えもなく、抵抗することもしなかった。今から思えば一方的に編集内容が変えられ、仕事を切られるなんて、おかしすぎる!断固抗議する!!だけども。

夢の連載は途切れ、萩尾マンガについて書くことは幻となり…。

そうして時代は、バブルがはじけ大不景気になり、マンガ評論やコラムは雑誌、メディアから駆逐され、2000年には一つの仕事もこなくなり、わたしは、自称マンガ評論家のパートのおばさんに転身したのである。以来20年もたっちゃったのかあ…。

萩尾マンガについて書けない、と知ったとき。

なぜかわたしは、二度とチャンスはこないと、漠然と、しかしはっきりと感じていた。なんでだ?なんでだ自分? チャンスは一度じゃないじゃん。自分で取りにいけよ!とまた叱咤するわたしがいても。無駄だとわかる。

「わたしはマンガだ」もしくは「マンガはわたしだ」と確信されていた何か。

マンガ世界と自分の世界との繋がりが、ぷっつりと途切れた。

指先からするりと逃げて、もう決して戻らない。

それを情熱が失われたというのか、やる気がなくなったというのか。

ただただ根性がなかったというのか。

その全部なのだろうけど。

それから、本当に、二度と、わたしにマンガについての仕事は、やってこなかったし、自分から書くこともなかったのである。


案の定、長くなったので続く
















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