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『「少女マンガを語る会」記録集』ー少女マンガはどこから来たの? 戦前から戦後へ激動期が育んだ花たちのー少女マンガを取り戻すためにーそれもまたどこから?

2021年のお正月明け、NHK地上波で放送された「100分de萩尾望都」は、多くのマンガファンの評判を呼んだ。もちろんわたしもその中の一名であり「ついに萩尾マンガも全国区メジャーの扱いになったのねえ」と万感胸に迫るものもあった。

番組では、著名な学者や作家、マンガ家が、我こそは世界一の萩尾ファンと言わんばかりに愛する作品について、そりゃもう前のめりに声を振るって語り尽くしている。まあこう言っちゃなんだけど萩尾ファン歴49年(!もう半世紀なのかい…)特に目新しい言説もなかったけどお。

当然ながらテレビは、一般視聴者にもわかるように語らなければならないわけで。『ポーの一族』『トーマの心臓』『半神』といった主だった有名作品を取り上げ、わかりやすく感動的な解説が、さらなる萩尾マンガファンを産むであろう内容だったし、わたしも興奮して拝見していた。

その後、もう一度録画を見た。一度目は気がつかなった事が、ものすごく気になってしまった。番組冒頭の「少女マンガ」についての紹介ー70年代になって発展、ブームが起こり「少女マンガ革命」と呼ばれた多くの才能が生まれた。萩尾さんは「少女マンガの神様」と冠されている。

SF部門の解説で颯爽と登場していた学習院大学の中条さんは、萩尾マンガの定型を逸脱したコマ割りと芸術的表現について「それ以前はなかった。革命だ!」と口角泡を飛ばし。マンガ家のヤマザキマリさんは「彼女たち以前は少女マンガは男性が描いていた」と紹介、画面上の差し込み画でも手塚治虫、横山光輝や赤塚不二夫といった面々の紹介がされていた。

えー? いくらなんでもそりゃあないでしょう。番組の構成上とはいえ、中条さんもヤマザキさんもマンガ研究の専門家じゃないにしても素人ではないんだしさー。少女マンガの歴史が、あまりに大雑把に捉えられ過ぎている…これじゃあ視聴者に誤解されてしまうよ…。

と疑念が胸に湧き出たところで、わたしの少女マンガとその歴史についての意見と考えを一気に述べてみたのが、リンクしたツイッターのスレッドです。下の引用RTに連なるコメントは別の内容です。二つとも長いですが、良かったらクリックして読んでみてください。

そうして、ツイートでも述べているけれど、「花の24年組」と「少女マンガ革命」と神格化されている70年代以前の少女マンガ、いわば「普通の少女マンガ」について、高名な男性読者だけではなく、わたし自身が差別していたのだとはっきりと自覚することになった。

キラキラしたお花目の 背中に花を背負ったスタイル画の お涙頂戴の 取るに足らない、読むに値しない、評価に値しない、くだらない表現だと。

もうずっと長い間、思い込んでいた。いや思い込まされていたーと言うべきなのかどうなのかは、迷うところだけれど。どちらにせよ、真実は、変わらない。かつては少女マンガ評論家と名乗りながら、それらを心の底でバカにしていたのだ。

でもまた、そうと気がついた瞬間に、わたしの中の「昔の少女マンガ」の姿は、変わった。

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橋本治が70年代にすでに見抜いていたようにー少女の欲望を満たすためにある少女マンガーは、だから女の子だけが読むものだった。少女である者にしか、その欲望の在処は、わからない。

そして、ゆえに少女マンガの社会的な評価は、少年マンガよりも低かった。発言権の強い男性読者が率先して評価するのは、当然のように自らが読み、楽しみ影響される少年マンガや青年誌、『ガロ』に載ってるマンガ。「マンガの神様」は手塚治虫先生。トキワ荘伝説。紅一点の水野英子。

激務に耐えきれず、まるで声を掛け合ったかのように60歳で亡くなっていった手塚治虫、石ノ森章太郎、藤子・F・不二雄…。

果たして。1929年(昭和4年)生まれのわたなべまさこは、91歳にして未だ現役。衰えのない唯一無二の発光する描線は、変わることなく、そのマンガ世界を伝え続けている。

にも関わらず、少女マンガ(あるいは女性マンガ家)の扱いは、なんら変化することはない。少女マンガの社会的評価とは、どこまで行っても少女自身ー女の子が置かれた場所を超えることは、決してありはしないからだ。

戦争の前、戦争中の日本ー大日本帝国、軍国主義の時代でも、敗戦後の民主主義国となった日本でも変わりはしない。女の子の存在価値は、蔑ろにされ続けている。それはもちろんのこと、先だって森喜朗前東京オリ・パラ委員会会長が発言した「女性差別」と連綿とつながっている。

でも、だからといって。わたしたち自身が、そんなつもりでいていいはずはない。だからって自らが自らを下げるようなことしてていいはずない。

周りの誰もが、わたしの顎を下げろ、口をふさげと言ったとしても。わたしは顎を上げる。口を開くんだ。キラキラした星を瞳に瞬かせながら。

少女マンガはどこからきたの?

たまたまツイッターを見ていてくださった少女マンガとマンガ史の研究や資料保存のお仕事を熱心に、地道に、長い間なさっているヤマダトモコさんから『「少女マンガを語る会」記録集』を送っていただいた。

1937年(昭和17年)上田トシ子さんは、マンガ家として仕事を始めている。戦争を挟み、赤本、貸本マンガブームに乗って、手塚マンガに影響されてマンガを描きはじめた若い女性たちーわたなべまさこ、水野英子、牧美也子、花村えいこ、今村洋子、矢代まさこ… 当時少女マンガを描いていたちばてつや、巴里夫、望月あきら…まだまだ書ききれない諸作家たち、編集者のみなさんが、少女マンガの現場であったことを語り合った貴重な記録。

あまりにも面白くて、あまりにも知らないことばっかりで、どこから語ればいいのかわからないくらい内容が濃いのですが。

一読して、わたしがもっとも胸を打たれた牧美也子さんの言葉を書き写しておきます。

「少女マンガを語る会」記録集」p33〜 牧美也子発言より抜粋

〜心の中にあるものを何か表現したいけれど(略)マンガという表現形式があるんだと知ったんです。(略)それで戦後も殺伐としたところで青春時代を過ごしていますので、心の中にあったあこがれみたいな、そういうものを描きたくなったわけですね。

ですから、後年、母ものであるとか、花だの星だのって言われますけど、そうではなくて、あの時代を過ごしてきた人間にとって、そういう世界というのは、とても心をいやされるというか、あこがれるというか…そういう世界だったわけです。必然性があったんですね。

(略)戦争とか戦災孤児とか。満州引き上げの人たちを見ても ひとつ間違えばあれは自分の姿だったと思うような時代を過ごしてきたものですから。あこがれのひとつとしてバレエものを描きましたー


2000年に開催された「少女マンガを語る会」は、初期の記録がほとんどなく、正当な評価も与えられない少女マンガを憂えた水野英子さんの発案により実現の運びとなった。

当初はすぐにも出版されるだろうと想定されていたが、この大変に貴重な記録は、20年の時を経て、ヤマダさん、共同研究者の増田のぞみさんらのご尽力によって、ようやく出版の日の目を見たという。

20年間、誰もお金を出そうとはしなかったーそして尚、諦めず尽力した女性研究者たち。感謝の心を捧げるとともに、このー少女マンガのレジェンドーに向けられた冷酷な現実について、わたしたちは、想像し、考えなければならない。

明日、また明日、未来を生きる、女の子たち、いや違う。全ての人のために。


リンクした「少女マンガはどこから来たの?」展示も是非ご覧になってみてください。

















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