凡直(おおしのあたえ)

私の住む町には四国霊場86番札所志度寺があります。

その志度寺はこのように紹介されています。

志度寺の歴史・由来
香川県東部、志度湾に面して建立される志度寺。海の向こうはるかには、屋島や五剣山の稜線を望めます。開創は古く推古天皇33年(625)、四国霊場屈指の古刹です。海洋技能集団海人族の凡園子(おおしそのこ)が霊木を刻み、十一面観音(かんのん)像を彫り、精舎を建てたのが始まりと言われ、その後、藤原鎌足の息子、藤原不比等が妻の墓を建立し「死度道場」と名づけられました。その息子房前の時代、持統天皇7年(693)、行基とともに堂宇を拡張し、学問の道場として栄えました。能楽の作品「海士(あま)」の舞台としても語り継がれています。


「海洋技能集団?」 「海人族?」 聞き慣れない言葉に、「海洋技能集団」で検索してみても、この凡薗子の記事しか出てきません。

そこで「志度町史」「讃岐人物風景」「郷土史事典 香川県」で調べました。

神櫛王(神櫛皇子)

讃岐国造の始祖。崇神天皇の孫・景行天皇⑫(71-130)の第17皇子。母は五十河媛(吉備)。日本武尊は第3皇子。

応仁天皇⑮(270-310)の頃、神櫛王の三世の孫・須売保礼命(すめほれのみこと)が初代国造になる。

敏達天皇㉚(572-585)の頃、 寒川郡の凡直千継(おおしのあたえちつぐ)の祖先星直が、讃岐の国造となり紗抜(讃岐)の大押直(おおしのあたえ)と姓を賜う。

庚午年籍(670)の時、讃岐直凡直に分かれる。

791年 凡直千継の21戸が讃岐公になる。

836年 讃岐永直、永成、当世ら 朝臣姓を賜う。

国造は大化の改新(645)後廃せられ、その優秀なものは新たに郡司に任ぜられ、引き続きその地を治めた。

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古代、東讃地区には「凡直」という国造がいたことがわかりました。

でも、他の地区の国造は「氏名+直」であるのに、この「凡直」の「凡」には他の意味があるような気がしました。

(「大押」が「凡」になっている)

まずは「国造」について調べてみます。

大和朝廷の行政区分の1つである国の長を意味し、この国は令制国整備前の行政区分であるため、その範囲ははっきりしない。地域の豪族が支配した領域が国として扱われたと考えられる。県主とは違い、国主(くにぬし)と言われた有力な豪族が朝廷に帰順して国造に任命され、臣・連・君・公・直などの姓が贈られ、軍事権、裁判権など広い範囲で自治権を認められた。
国造が大王から与えられた姓は、 

① 畿内及び周辺諸国の直姓国造
② 吉備や出雲の臣姓国造
③ 山陽道の一部と南海道の凡直(おおしのあたい)姓国造
④ 東海・東山の名代の伴造(とものみやつこ)姓国造
⑤ 東の毛野(けぬ)、西の筑紫・豊・肥の君姓国造

など、さまざまで、一律に行われた編成ではないと分かる。

ちなみに同じ頃の制度で部民制というのがある。


https://ja.wikipedia.org/wiki/部民制

海人族と言えば、「安曇、宗像、海部」が有名ですが、  「凡直」は、部民でも氏名でもなく、国造だったので、あまり聞き慣れなかったようです。

しかも、河内、淡路、阿波、讃岐、伊予、安芸、周防、土佐 に見られる。

大和朝廷から九州へと渡る瀬戸内海航路に関する役割を担っていたのではないでしょうか?

不勉強ですが、河内からの航路で、さぬき市津田が重要な港だったことを最近知りました。

津田には古墳群があり、少し陸地に入った所には四国最大の富田茶臼山古墳があります。

古代、朝鮮半島との関わりが、政務の重要課題だった大和朝廷にとって、瀬戸内海航路の掌握は、必須だったでしょう。

その考えに至れば、古代、讃岐は海で隔てられていると言っても、大和朝廷にかなり強いつながりがあったと考えられます。

こんなに重要な地域なのに、大和朝廷とのつながりを遺すものが他にないのか?

と、考えた時、「あっ!」と思いました。

灯台元暗し。

大和朝廷とのつながりを遺す、大きな大きな遺跡。

わが町の「志度寺」です。

凡族の尼、薗子が、都から流れてきた流木を掘って、十一面観音菩薩を掘って、堂宇を建てたのが、志度寺の始まり。

そして、唐から都に帰る途中、龍神に奪われた宝珠を取り返すために志度の浦に藤原不比等が来て、海女と結ばれ、一男をもうけたが、龍神から珠を取り返したために海女は絶命し、その子供は藤原北家の祖、房前となった。

志度寺には、こんな伝説を伝える縁起絵巻が遺っています。

縁起絵巻、地元では有名すぎて、あるのが当たり前のような感覚でしたが、他所にこんな立派な縁起絵巻はそうないでしょう。

しかも、日本史上のスーパースター藤原不比等が来て、海女と結ばれて、その子供が、あの、藤原道長につながる、藤原北家の始祖、房前!


こんな話、荒唐無稽、と思っていましたが、唐(朝鮮・北九州)~大和の船は何度も通っていたでしょうし、不比等どころか、中大兄皇子や大海人皇子も、白村江の戦いの時には、もしかしたら、この海を渡って行ったかもしれない!

そして、志度寺だけではありません。

海路には、八栗寺、屋島寺、と、志度寺に負けない古刹があります。

地元の私には見慣れた景色ですが、こんなに歴史があり、広大な敷地があり、寺宝がある由緒あるお寺が揃っているのは、都に近く、朝廷と深いつながりがあった讃岐だからこそなのかもしれません。

そう考えれば、空海の登場など必然のような気もしますし、

四国八十八カ所がなぜ、四国だったのかという疑問も愚問のような気がしてきます。

古代、讃岐はすごかった!

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