母親の入院遍歴と現在~その7

三か月ぶりに家に帰った母親ですが、何とか歩けはするものの右手は効かず、文字を書いたり食事をしたりもすべて左手でこなしていました。
入院中もずっと左手で文字を書く練習をしており、食事も箸は無理なのでフォークとナイフ、スプーンとフォークが一体化したようなものや、持ち手のついた汁椀などを私が探してきて、何とか食事をしやすい工夫をしていました。
いろいろと問題はあれど、母親のこういう、できることを黙々と頑張る姿には本当に頭が下がりました。愚痴も言わず、ということはなくたまに切れたりもしましたが。
私を含めた周囲の平凡な人間には理解されませんが、本当はもっと大きな事ができる人だったのかもしれないと思います。

尊敬できる人でもある母

父と結婚したのは、父の父親、つまりは私から見て祖父にあたる人が、人様の紹介で父とお付き合いしている時に脳梗塞で倒れ、放っておけないと思ったからだそうです。
当時の父は駆け出しの職人で、4人兄弟の長男として家族の面倒を見ていたので結婚しても大変なことは分かりきっていたのにです。
母の実家は商家で当時としては裕福でしたが、家族総出で働いていたので母も例外でなく、決して世間知らずのお嬢様でなく若いころから肝っ玉かあさんの気質があったようです。
ただ金銭感覚はやっぱりちょっと世間離れしていました。小学校の遠足で平気で当時の高級品であったバナナを持って行って、周囲の生徒たちのいらぬ反感を買っていたそうです。あと、TVがあるのも近所中では母の家だけで、TVが普及し始めた当時は皆が母の実家に見に来ていたのだそうです。
とはいえ大阪から身寄りのほぼいない現住所地に来れるところがまずすごいです。当時は閉鎖的な田舎で苦労も並大抵でなく、それを目の当たりにした姉はこの土地の人をいまだに嫌っています。

そんな母ですので、またもや仕事に早く復帰しなければとリハビリに励み、3月ごろには少しづつお店に戻り始めます。店頭でなじみのお客さんと話をしたり、店長として指示を出したりすることで気も張り、完全に元のようにはなりはしないものの、入院中とは見違えるくらいに良くなっていきました。

父の死と3度目の入院

そうして少しづつ生活のペースがつかめ、以前のように浪費もせず、人間関係も良好になった母と一緒に働いていた父は「今が一番幸せや」と言っていたそうです。
考えてみればその時間はそれまでの生活から見ると一瞬に過ぎないものでしたが、最後に父がそう言える日々を送れた事は本当に良かったと感じています。
そうして父が亡くなったのは、母の脳梗塞での入院から2年後の11月でした。
なぜか我が家と母方の親族の病気や死は秋にやってきます。暑い夏の後の秋はお年を召した方は体調を崩しやすいのもあると思いますが、うちの場合は事故もあるので一概に言えないのです。
今でも秋に電話が鳴ったりメールが来たりすると、いろいろ思い出して身構えてしまいます。もうめぼしい親族はほぼ全滅なのである意味心配はいらないのですが。

父が亡くなり二軒あった店を一軒にして、家族で交代で入るようになり、私も土日祝に入って忙しい日々が始まります。
母は送迎してくれる父がいなくなったので、幸い駅の目の前だったお店に電車で通い始めます。それも良いリハビリになると喜んでいたある日、再び事故は起こります。
父の死からわずか8か月後の6月、母は臀部の骨を折る大けがをします。
原因は電車での転倒です。

ここでひとまず続きます。

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