父と津波~昭和東南海地震

父は兵庫県尼崎市の生まれですが、父の父、私の祖父はもともとは三重県の熊野市の出で、職人修行で大阪に出てきていました。祖父は兵庫で結婚しても本籍は熊野の本家に置き、戦時中は当時小学生だった父を疎開させ、何なら終戦後は改めて分家して熊野に本籍を据えたようです。
今回はその父が三重県熊野市に戦争中から戦後にかけて、中学を卒業するまで疎開して、その時期に推定3回の津波を経験したというお話です。

父が亡くなったのは2012年でしたので東日本大震災を見ており、その折に

「津波なんか熊野で何回も遭うた」

と言っていました。
そのときは私は、津波なんかそう何回も遭うもんじゃないだろう、話を盛っているか勘違いじゃないのか、と思っていましたが、父の死後改めて調べてみるとほんとにあったらしい事がわかりました。
1944年に起こったのが熊野灘を震源とする昭和東南海地震です。
それが一回目として、二回目に当たるのが1946年の昭和南海地震、そしてその余震が1948年にあり、中学卒業の昭和30年(1955年)あたりまで父が熊野にいたことを思えば、なるほど何回も体験していると納得するのです。
しかもいずれも地震の規模が大きく、昭和東南海地震では紀伊半島に4~6メートルの津波が来たといいますから、相当恐ろしかっただろうと思います。

三重県熊野市は紀伊半島の南東部、本州最南端の和歌山県串本町の北東に位置します。有名な熊野古道の熊野ですが、有名なのは和歌山側で、一応続いてはいるようです。
おじいちゃんは熊野のお墓に入っていたので、私が小学生の頃は夏になったらお墓参りに車で5時間かけて行ったものです。滋賀からだと国道一号線から鈴鹿峠を越え、途中から紀伊半島の東側に抜けて海沿いをずっと走ります。現在は良い道が出来ているそうなので、昔ほどの時間はかからないと思います。

熊野は一言でいうと断崖絶壁の町でした。
波に削られたような崖の間に道が通り、山に続く斜面に家が並びます。
現在もダイナミックな岩が構成する景勝地として有名なようですが、打ち付ける波の激しさも思わせます。

そんな地ですので、父曰く

「津波が来たらとにかく山の上に逃げた。熊野は海からすぐ山で津波の高さ以上に逃げられれば助かったが、それが生死を分けた。津波が達した地域は根こそぎ持っていかれた。」

とのことでした。
父の父、私の祖父は当時まだ尼崎にいましたが、あのあたりも空襲が激しくそれで疎開させたのだと思いますが、疎開してなお同じような命の危険に晒されたのは皮肉な事でした。熊野は自然豊かな土地で当時もまあ田舎だったと思われるので、都市部ほどの被害や死者は出なかっただろうけど、父もたくさんの人の死を見たのだと思います。それについては多くを語りませんでしたが。

昨今地震が起こると南海トラフが取りざたされますが、南海トラフが起これば熊野も無事では済まないだろうなと思い、父の言葉を思い出すのです。


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