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皆さんは何か熱中したものなどありますか?
僕は小学校3年生から高校卒業までサッカーというスポーツに約10年間、取り組んできました。
ボールを蹴り始めたのはもうちょっと前で幼稚園の年長さんくらいからキッズサッカーへと通っていました。

今回はそんな僕の頑張った様で大した事ない10年間のサッカー人生について語りたいと思います。ちょっと長いので足を伸ばして読んでください。お願いします。

僕の父とその兄弟もサッカーをしていました。
○○三兄弟と昔は呼ばれていたそうで、3人とも佐賀県のサッカー界では実力者だったそうだ。
そもそも僕の生まれた町にはサッカー協会ができるほど昔からサッカーが強い町で、その中でも父やその兄弟は上手な方だった。どのくらいかと例えると全員が全国大会を経験しており、佐賀県制覇は当たり前、九州・全国大会で上位進出を常に目指す程だった。サッカーは1人で行うわけでは無いが、そのメンバーとして試合に出てたくらい上手だった。

そんな家庭に産まれた僕にはサッカーを頑張って欲しいという期待が生まれる。気づいたらサッカーボールに触れていて楽しかった。そして幼きながらも父には負けたくないと密かに思っていた。

小学生の頃から身長も小さい、足も遅い、身体能力的に不利な自分だった為、コツコツとできることをやるしかなかった。試合の度に父には怒られ、練習では恩師にビシバシと言われ、家から学校までの4kmの道のりをランドセル背負って走って行き帰りした。

無我夢中でサッカーをしてた小学5年生の秋。学童オリンピックで決勝戦へと進み王者サ○ン鳥栖に0-5で敗北して佐賀県2位となった。全国大会とはならなかったが九州大会への出場を掴み取った。よくよく思えばここが自分の全盛期だった。
小学生ってリフティングが1回増えただけでも嬉しいから、毎日上手になってる様な気がするし、ゴールも決めれてたし、毎試合が楽しみだった。

そんなこともつかの間。九州大会ではほぼ全敗という結果。確かにどこのチームも強かった。思い返せばプロになった選手もちらほらいた。悔しかったがそこまで落ち込んで無かった。「まだ次がある」と思っていたから。その次の6年生の全日本選手権とろうきん杯ではトーナメント敗北という形で結果を残すことはできなかった。残ったものはろうきん杯の後半0-2で負けてる状況で相手の後ろからスライディングをかまして1発レッドカード退場という記録を残した。これが小学生最後の締めくくりとなった。

中学生になった僕は11人制サッカーと先輩との縦社会を学ぶ。あーまた球拾いかと思いつつ過ごした1年生。ちょっと試合に出させてもらったり先輩と楽しくサッカーできたりした2年生。この時は、佐賀県大会制覇、九州大会3位で全国大会出場することができた。しかし、メンバーに入っていたものの試合に絡むことはできなかった。先輩達はポテンシャルが凄く高かった。そしてやる気の入らなかった3年生。去年に比べ部員も少ないし、先生は投げやりになるし早く高校でサッカーしたいとか思っていた。春から先生が一新してチームの雰囲気がガラッと変わってやる気は出たものの公式戦前に松葉杖をつく怪我を負う。無理矢理試合に出たもののライバル校に敗退。正直この3年間ほぼ成長できた実感が無かった。

高校では父と同じ学校でサッカーをしたかった為、とある赤色の高校に進学。昔に比べりゃ大した事ないが、3年生の偉大さや怖さを知る。正直卒業するまであいつらにビビっていた。それよりもビビっていたのは顧問や副顧問。今でもお会いすれば、気をつけをし頭を下げると思う。どこの高校も部活動もそんなのが当たり前だと思う。そんな環境の中サッカーをするが、1年生だけの試合には毎試合出れてもトップチームに絡むなんて事は1度もできなかった。しかし、父はそれを1年生の頃から成し遂げていた。この時点で父を超えることはできないと確信に近づいていた。あと1度で良いから九州大会・全国大会へと連れて行って試合に出てるとこを見せろと言われていた。確かにそれは目標だが、「そんなんできるわけねえだろ」と内心思うようになっていった。なぜなら、2年生、3年生の春の新人戦ではユニフォームを着て試合に出場していたが夏のインターハイ予選になるとベンチメンバーまたはベンチ外を宣告される事になっていた。後輩にポジションを奪われ、屈辱を感じ、腐ってはないが永遠にトップチームのサブの立ち位置だった。試合に出たい気持ちはあるが試合でどういう風にするというイメージが全くつかなくなっていった。逆にサブチームでやってる時の方が主体となり、やりやすいぬるま湯の環境に浸っていたと思う。でも、実力でそこを抜け出すことはできなかった。
高校3年生の夏、コロナでインターハイが無くなり代替試合としてSSP杯という県大会だけが設けられた。チームとして優勝を目標とし、一致団結して勝ちに挑んだ。結果は佐賀県制覇。しかし、1秒たりとも試合に出れなかった。嬉しさの反面、悔しさもあった。隣のあいつは試合出てんのに俺は何してんだろう。そんな日々を過ごしているあっという間に最後の高校サッカー選手権の時期に到達。あの時思っていた「まだ次がある」というチャンスがラスト1になった時、本当に焦っている自分がいた。なぜならそこまで積み上げた自信というものが無かったからだ。それでもメンバーに入って試合に出れなくてもトップチームに貢献しようと思っていた。しかし、最後のチャンスが叶うこと無く高校サッカー選手権準決勝0-1敗北となった。本当に悔しかった。負けた、次が無い、父を超えることができなかった、もうこのメンバーでサッカーができない。色んな感情が込み上げてきて涙を流した。これにより僕のサッカー人生は一旦幕を閉じることなった。

無駄ではなかったこのサッカー人生。青春の100ページくらいはサッカーで埋め尽くされていると思う。諦めない大切さや根性、やる気、気持ちなど心も鍛えられた。チームスポーツな為、団結する大切さ楽しさなども分かち合えたと感じる。なんだかんだ言って、全盛期は小学生かもしれないけど楽しかったのは1番部員がいた高校生かもしれない。しちゃかちゃした毎日で嫌だなと思うことや辛い日々もあったけど、それを乗り越えれたのはメンバーのお陰だった。今でも関わり続けている人もいるし、良い出会いだったと思う。辞めるつもりは無かったがサッカーを続けて本当に良かった。

生まれ変わったら、足が速くてイケメンな宮市亮と見ている人を魅了するロナウジーニョの足元と王様リオネル・メッシの左足を掛け合わせたサッカー選手になりたいと思う。そんな僕と来世でお会いしましょう。
それでは皆さんごきげんよう。

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