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朝井リョウ『正欲』

みんなが好き好んで性の話をするのはコンプレックスの共有の為だった。よかった、ドキッとするのは私だけじゃないんだ、と安心したかったからだ。

正しい性欲は多数派によって定められる。しかし、正解を出す為には当然人と繫がることとそこで情報共有をすることが必要になる。「レールの上」に引き続き安住出来るかどうか、多数派は常に不安を隠せないのだ。ならば、少数派の方がよかったんじゃないか。人間は何か物事に対して諦めようとするとき、反ってホッとする気持ちがつきまとうものだ。選択肢があることは幸福のようで辛苦だ。定義された世界の方がよっぽど落ち着く。

では人間が性的欲求をどこかにぶつけようとするとき、少数派は如何にして解消するか。これは案外難しい。男が女、女が男を求めるときのようには上手くいかない。脈のある人がいない、風俗がない、AVがない、なにもどこにもない。これは社会に理解者がいないことが原因となっている。理解者がいない、たったそれだけで耐え難い苦痛を強いられる。

「手を組みませんか」

したがって当然このような流れをたどる。繫がることが簡単なインターネット上ではもう既に誰かが誰かと手を組んでいる筈だ。しかし、社会と折り合いをつけなければいけない。多数派のつくった枠組みに何とか収まらなければいけない。それは多数派も同様だ。
「小児愛者はどうするんだ」
「知ったこっちゃねえ。犯罪は犯罪だ」
被害者心情に寄り添うだけが社会正義ならば、本質的な解決には至らない。必要なのは対話であって会話ではない。薄っぺらい「多様性」の言葉が少数派の中に巨大な諦めをつくり、沈黙させることになるのだ。

ならばこういう問題にどうアプローチするか。加害者の性的な都合で性犯罪を正当化するわけにはいかない。我々はいずれ「小児愛者向けのコンテンツ」を合法化するだろうか。出来ない、とするならば何故成人向けのコンテンツは存在出来るのか。一体どう違うんだ。誰の性欲が正しくて誰の性欲が間違っているのだ。またそういえるのは何故なのか。性の話の共有をした者が獲得した利権にすぎないんじゃないか。

多様性とは何だったか。少数派の中に諦めを醸成することか。多様性を認めようとして、いくつかの少数派の例をあたったら、眼前に現れたのはこれまで病的として扱っていた人たちの集まりだった。だから、そこに蓋をした。冗談じゃない。

多様性社会の実現は当事者にただ辛い思いを二度させただけの夢物語だったのか。もしそうならば、まるで視力が再生した患者の目を医者が潰すような残虐さといってよい。しかし、この一大ムーブメントのような価値観の中で少数派に聞く耳を持たなかった登場人物が淘汰された(ような)結末が唯一の救いだったか。いや、いっそ潰えた方が幸福だったか。

おわり


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