寅原

こんな時代だからこそ、寅さんに会いたい



         

        「それを言っちゃあ、おしまいよ!」


ああ、そうだよな。ムカつくよなあ。でもさ、人間なんて、ついカッとなれば心にもないことを口走っちゃうし、変なプライドが邪魔して素直になれないときだってあるんだ。それが、人情ってもんだろう?あんたが一番それをわかってるはずじゃねえか。なあ、寅さん



幸せ


 2019年12月27日、映画「男はつらいよ」の新作が22年ぶりに公開される(主人公の寅次郎を演じる渥美清は1996年に亡くなっている)。実に50作目の上映であるが、おそらくこれが本当の最後になるだろう。ちなみに僕は一足先に試写会で拝見したのだが、ひいき目が過ぎるので、感想は控えておく。


さて、何故今さらそんな古くさい作品の新作をやるのか。多くの人がそう思うかもしれない。だが僕は、まさに今こそがベストなタイミングだと確信している。今しかないのだ。


合理主義と生産性で溢れかえる社会で、とても便利で満たされたこの生活の中で、僕はふと、寅さんの世界へ逃げ込みたくなる時がある。そして、観た後はいつだって、2時間前よりも少しだけ心持ちが温かく、人に優しくしようと努める自分を感じることができる。けれども、その温もりの隙間からはきまって、行くあてのない寂しさも顔を覗かせるのだ。

こんな気持ちの源流は、一体どこに在るのだろう。


生まれも


映画「男はつらいよ」の展開は毎回ほぼ同じと言っていい。生まれ故郷を葛飾柴又にもつ主人公寅次郎は、テキ屋商売で日本各地を旅しているフーテン男。旅先でマドンナと出会い、恋に落ち、女を追って故郷柴又へ帰ってきてはフラれ、また商売の旅に出る。これが基本パターンだ。

 

僕が寅さんを好きな理由なんて、ダラダラと述べるつもりは全くない。そんなことはこんな文章で伝えきれるわけがないし、それにやはり、この作品の魅力というのは、映像じゃなけりゃ伝わらない。見なきゃわからないのだ。


だから、1つだけ。

僕自身もつい忘れてしまいがちな、この物語に関する確かなことを1つだけ書いておく。


喧嘩


寅さんって本当にどうしようなくダメなやつなんだ


 晩年の作品でこそ彼は、角が取れて穏やかになり、ときおり妙に説得力を帯びた言葉を放つ仏のようなキャラになっているけれども、冷静に考えてみれば、まあ、とんでもない男だ。

たまに帰ってきては、家族に散々の迷惑をかけ、自分勝手に出ていく。喧嘩するとき、何か騒ぎを起こすとき、非があるのはたいてい寅さんの方。しょうもないことに腹を立てては小学生のようにふて腐れて、子供年寄り関係なしに大人気なく怒鳴り散らす。それでいて、たまにマドンナと良い雰囲気になっても、最後には必ず自分から身を引いてしまう意気地の無さだって持ち合わせてるんだから、もう救いようがない。


リリー


 それでも何故、この男はあんなにも国民から愛されたのか。


それはきっと、あまりにも滑稽に、不器用に、そして正直に、彼の姿が人間の素直な情を体現していたからではないだろうか。



ただ目の前で起きることに文字通り一喜一憂して生きる。正直、こんなのが身内にいたら、相当やっかいなのは間違いないが、それらの行為に一切の計算や他意が無いことだけは、はっきりとわかるのだ。先の事とか、自分の利益のことなんて、微塵も考えちゃいない。


そしてやはりというべきか、情には人一倍厚い。大切な人や本当に困ってる人の為には、なりふり構わず、恥も外聞もなく走り回ることができる。無論、こんな時だって理屈はメチャクチャで、道理もクソもあったものではないけれど、僕には彼の気持ちが痛いほどにわかってしまうのである。



昔はそんな人がたくさんいたとか、そういう奔放さを許容する時代の度量があったとか、そんなことが言いたいわけじゃない。いや、そもそも本当にそうなのかさえ、当時を生で知らない僕にはわかる由もないのだ。


それでも、この映画を観た時に揺れ動く僕の心はきっと、奥底で無意識に感知してしまっているのだろう。


「確かに何かが失われてる。現代には無いモノがこの中にはあるんだ」と。


それはきっと寅さんの姿だけじゃない。柴又の香ばしい街並み、子供たちで溢れる江戸川の河川敷、日本各地の美しい自然、随所にチラつく人間同士の粋な心遣い。


何度、旅へ出ていく寅さんの財布にこっそりお札を忍ばせる妹さくらの健気な姿を見ただろう。


さくら





僕が愛読する池波正太郎の「男の作法」という本の中にこんな一節がある。


人間とか人生の味わいというものは、理屈では決められない中間色にあるんだ。つまり、白と黒の間の取りなしに。その最も肝心な部分をそっくり捨てちゃって、白か黒かだけで全てを決めてしまう時代だからね、今は...。




きっと、そういうことなんだろう。いくら技術が発達して世の中が便利になろうと、効率だとか生産性だけを求めていては永遠に辿り着けない余白の世界が、必ずある。そしてその空間には、安易に言葉にできることや、頭の中で合理的に判断できることなんて、介在する余地はないのではないか。




どれだけ時代が進んでも、人間が変わらずに持てるモノって、きっとそれなんじゃねえかなあ。少なくとも、社会と人間の心が存在している限りは。



それがさ、寅さんの世界には溢れてるよ




でも結局、こういうことを一所懸命に考えて、ベラベラと綴ってる時点で、もうダメです、野暮なんです。

つい熱が入って、長々と書いちゃったよ。あーあ、寅さんに笑われる。


寅3

                       


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