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おばあさんの庭

台風を待つ東京の雨から逃げるように新幹線に乗り、やがて車窓に広がる柔らかな緑の水田と青い空を眺めながら、おばあさんの家にやってきた。
おばあさんは私のおばあさんではなく、血もつながってなく、ひょんな縁でつながった親戚にすぎないけれど、もう誰も住んでいないおばあさんの家に、身軽な私は風を通しにときどきやってくる。

おばあさんの古い家には庭がある。すごく大きな庭ではないが、もしも東京なら、ここに小さな家を二軒くらい建ててしまう程度には広い。おばあさんは植物がとても好きだったから、この庭には彼女の愛した木々や草花や苔がいまも生き続けている。植物にたいして「生き続けている」などと言うのは、まるで「けなげ」だとでも思っているみたいで傲慢だけれど。植物たちは私よりもはるかに長い生を与えられているのだから。おばあさんよりも圧倒的に花の名を知らず、雑草の区別もつかず、苔むした庭のどこを踏んでよいのかもわからずに立ち尽くしている私の足元で、小さな蛙たちがぴょこぴょこと跳ねている。

誰も住んでいない家の庭が草に覆われ、近所に迷惑がられはしないかと親戚たちはひどく懸念していた。春は花粉が近所に舞い、夏は生い茂った雑草が道へはみ出し、秋は枯れ葉が隣家の庭へ舞い込む――そんなことだけが気になり始めて、木を伐るべきか、もう庭はつぶしてしまおうか……という話が出て気が塞ぎ、雪に埋もれた冬のあいだだけ、しばしの休息とばかりに安堵した。そんな一年が過ぎ、再び春が訪れたこの五月、私が一人でここへ来て、縁側に腰かけ庭を眺めていたときにそれは起きた。シャッター音が聞こえたので入口の方に目を向けると、知らない人がスマホで写真を撮っていた。「こんにちは」と私。ご近所に住むSさんという方だった。

ここのお庭がきれいだからときどき来て見せてもらっているの、先週はまだだったけど、今日は○○が咲いたね、苔が本当にきれいだよねここは、どうやったらこんなにきれいに苔が生えるんだろうって近所の人たちみんな言ってるよ。○○さんもよく見に来てるって言ってた。

Sさんのお母様もおばあさんと同じ施設にいるんだそうだ。それで面会のついでにこの庭の写真をおばあさんに見せてくれているんだそうだ。おばあさんは「花は自由に採っていいよ」と言ってくれるけど、それは気がひけるから、摘んだ花を施設に持っていきおばあさんの部屋に飾ってくれているんだそうだ。「雑草が生い茂り近所迷惑になるかもしれない庭」だと思い込んでいたのは身内だけで、本当は「みんなに愛されている庭」だったんだ。そうに違いない、たった一人に愛されている庭などないのだから。おばあさんが草むしりできなくなってきたとき、近所の人たちが手伝ってくれていたことをどうして忘れてしまったんだろう、もう少しで自分たちの疑心暗鬼に耐えきれずにつぶしてしまうところだった。

私は憑き物がおちたような気持ちになって、次に私が来たときにでもゆっくりお茶にいらしてください、他の方たちもご一緒に、と誘ってみた。ぜひぜひ、おうちの中からこの庭を見てみたいと思っていたのと返ってきた。「今度お茶でも」に、違う角度から庭を見たいからぜひ……って、なんていい答えだろうと思った。庭なしではありえないこのやりとりはとても心に残った。

おばあさんはこの庭のことをいまもちゃんと覚えている。残念ながら、体調が以前よりもおもわしくなく、施設を移ってしまったのでSさんとはもう会えなくなってしまった。でもきっと今も、ときおりこの庭を覗きこんではおばあさんのことを思いだしてくれていることだろう。新しい施設では感染者が出てしまい今は面会は禁止。だから今回は、家に風を通し、庭の写真を撮ってプリントし、施設のおばあさんへ手紙にして送ることにした。庭に溢れる緑は、その永遠のいのちの息吹をベッドに横たわる人に少し譲ってくれると思う、かつて自分たちがお世話してもらったときのように。

さよなら、私の庭、鳥の声が聞こえなくとも
あなたは以前とかわらずきれいだね
大地はやさしい覆いで包まれ
その下の秋の痕も見えはしない

庭が冬を越えられますように
春には周りのすべてが目覚めることでしょう
その美しさで私を魅了することでしょう
私は自分の友人たちをお茶に招くことでしょう
(タチヤーナ・カロシナ、2018年)

明日、写真を撮るわずかなあいだだけでも雨がやみ、明るい光がさしますよう。でも、晴れがいいというのもまた私の思いこみかもしれない。雨の庭も、おばあさんは数えきれぬほど眺めてきたはずなのだから。




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