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風の王 その⑩ 辿り着けないゴール

 歩きながら、沙都子は考えた。
――確かに最初は記者的な興味で注目をしたわ。王者の表情には見えない彼に。でも…。
 読み解いていけばそれは単に、人の心の傷の話だった。
――記事にするとかしないとか、そうじゃない。そうじゃなくて、知ってみたい。日本一速く走る彼が、何を抱え、だからこそどんな景色を見ているのかを……。
「その人の内面深くまで知らなくても〈卒のない〉記事は書ける」
 立ち止まった。いつの間に傾きはじめていたのか、西の空に陽は迫っている。最近の沙都子は、時間の流れを早く感じていた。仕事が充実しているからだ――と、内心で思っていたが、ふと考える。
――本当に短いのかも知れない。一日なんて。時間なんて。本当は。
「たった十秒ソコソコで終わる勝負か……」
 儚いと言えるかも知れない。そうでは無いのかも知れない。西日を見つめ、沙都子は「よし」と呟いた。踵を返すと、今下りてきた坂を上りだした。
 すれ違う学生もほとんどいないなか、陸上選手が出てくる通用門で待ち構えた。
「居るか分からないけどね」
 苦笑した。ポケットのボイスレコーダーを一旦は握りしめたが、手放した。
 夕日に染まる木立の枝葉――その先に、雄介が現れた。
 沙都子を見つけると、立ち止まった。沙都子は、深く頭を下げた。

 並んで歩いた。
「しつこいよね」
「ええ、まあ…」
「ハッキリしてて有難いわ」
 無表情な雄介の横顔も、見慣れれば〈完全な無表情では無い〉と思えるようになった。
 出せないのだ――そんな風に沙都子は思うようになっていた。
「さっき、臨在コーチとお話ししたの。うん、あなたのことで」
 雄介は歩速も変えず、黙ったまま歩いていた。
「梶原君のこと、取材の中で知ったの。それを臨在コーチからも教えられました。勿論記事にする気は無いわ。ただ、ひとつこれが最後だと思って教えて欲しいことがあるの」
 雄介は立ち止まり、背中で沙都子の言葉を聞いていた。
「あなたが見ているものが何なのか。それだけ教えて欲しいの」
 沙都子は静かに続けた。
「何でそんな義理が――と言われても返す言葉は無いんだけど」
 雄介は黙ったままで聴いていた。
「実は私ね、元は政治系の雑誌記者をしていたのよ。あるトラブルでそこから今のスポーツデイズに謂わば左遷させられ、守山さんの下に付けられたの。屈辱だったし、悔しかったし、悲しかったわ。スポーツを低く見てるんじゃ無いのよ?誰にも、これが自分の道だ!って、そういうのあるでしょ?それを奪われたんだもの、悔しく思うのは当然よね。それでまあ、初仕事が坂本君の試合だったと。そこで初めて陸上を――百メートルの競争を観たんだけど、私の目には笑うことの無い王者が悲しそうに見えたの」
 振り返った雄介の顔にあったものは、戸惑いだった。
「失礼な言い方よね?見えたからって、それが事実みたいに――。でも、色々なことの本質を探ることも仕事の一つだった私には、勝っているのに楽しそうじゃ無い坂本君は不思議に映ったわ。なんなんだろう?何を抱えると、あんな風になるんだろう?なのに強い、その理由って?」
 年下だが、上背のある雄介と見つめ合っているうちに、沙都子は奇妙な感覚に襲われていた。
――まるでこの気持ちは……。
「グラウンドに行きますか?」
 唐突に、雄介が言った。
「え?グラウンド?」
 沙都子の返事を待たず、雄介は今下りてきた坂を戻りはじめた。その歩幅は広く、置いて行かれそうになった沙都子は慌てて後を追った。

 誰も居ない。静かなグラウンドには校舎にまばらに残る照明、頭上の星と遠いビル明かり以外に灯は無い。雄介はトラックに入ると、百のスタートラインへ向かった。
 息を切らせて追いついた沙都子を見ず、雄介はしゃがみ込んだ。
「調べたのなら知ってるんでしょう?僕は速かったんです」
 沙都子も雄介に並んでしゃがみ込んだ。触れると、ザラリとしたグラウンドの感触が手のひらを伝って感じられた。
「走り出すじゃないですか?かけっことかで。すぐに誰も見えなくなるんです。どのくらい離れたかなんて振り返る事もしないで、ただほっぺたに風だけ感じてました。運動会の観客なんて、おふくろ以外見えてなかったんですよ。それこそ人なんかどうでもよくて、ただ風になったみたいに気持ちよかったのを覚えてます。でも、あの日、梶原と初めて走った日に『あぁ、コイツは凄い!』って思わされたんですよね。初めて負けたんです。それはショックでしたよ。自信喪失とか、そう言うのじゃ無くて、世の中には自分よりも凄い奴が居るんだ――というのを肌で感じた衝撃――とでも言うのかな。ただただ驚きでした。それが二年続き、そして中学校に入って最初の試合でも負けた直後、或る事を思ったんです。僕って必要?って」
「それは…」
 言いかけた沙都子を見ず、雄介は首を振った。
「思ったんですよ。いつも二位の僕って、必要だろうか?僕が居なくても三位の子が二位になるだけだろ?って」
 気持ちは分からなかった。受験でも、会社内のレースでも、先頭が居ればビリも居る。その全員で作っている順番だ――と、沙都子には思えていた。
「かと言って、自分一人きりで走ったら、そりゃあいつだって一番ですよね?そこに何か喜びってあるのかな…なんて事も、思う事はありましたけど、それじゃあ勝ちって負けた人へ感じる優越感なのかな?とかね」
「考えるタイプなのね」
「みたいです」
 雄介は初めて笑顔を見せた。ホッとしながら、沙都子は聞き続けた。
「あの日のレースも完敗でした。みんなから見れば僅差なんでしょうけど、あの差って――」
 雄介は地面をジッと見つめた。何を見ているのか、沙都子は知りたかった。なぜ自分は、これほどまでにこの青年の見ている者を知りたいのだろう――その想いが胸を苦しくさせた。
「永遠なんです。努力しても縮まらない。絶対にアイツとの間にある、あの差が、僕とアイツの居場所の違いなんですよ」
 返事が出来なかった。
――誰も知らない世界のことを言ってるんだわ…。ほとんどの人が経験した事のない『スタートしてから十秒先の差』の話…。コンマゼロ何秒の…。
「負けて、呆然としてた時には感じなかったんですけど、少ししたら嬉しくなり始めて。それでアイツと話してみたくなって、追いかけたんですよ。バスのところまで」
 沙都子には、地面に腰を下ろしてシューズの泥を落とす翔太と、立ったまま、なんと言おうか照れている雄介の二人が見える気がした。長いトラックを背景にした二人は、何秒見つめ合ったのだろう――そんな事を感じていた。
「事故のことは、次の日に知りました」
「相手の過失だったって――」
 言いかけた沙都子の言葉を、柔らかな表情の雄介が遮った。その言葉に、沙都子は全てを知る思いがした。
「俺が呼び止めなかったら、バスは事故の場所に、あの時居ませんでした」
 雄介は、直線コースの先へ視線を向けた。
――辿り着くことのないゴールを、彼は見ている……。
 雄介にしか感じられないものが、自分に見えるはず無いでないか――。沙都子は唇を噛んだ。

  外灯が灯る。
 並んで坂を下りる雄介と沙都子は、どちらも黙っていた。
 駅前で別れる時、沙都子は改めて雄介に頭を下げた。
「ごめんなさい。引っかき回すような真似をしてしまって。悪気は無かったとは言え、悪気が無いからいいというものじゃないわよね」
 下げた頭の上から雄介の声がした。
「いいんです。僕的には、いつか誰かが掘り起こすこともあるのかなって――そんな風に思ってたのも事実だし。それが若林さんみたいな人で良かったと、今は思っていますから」
 顔を上げ辛くなった。見られたくない顔を、いま自分はしている――。そう感じた。
「ただ、梶原のお母さんだけは傷付けないようにお願いします」
 上目で見ると、雄介も頭を下げていた。通行人が訝りながら二人の脇を過ぎていく。
「それは絶対に約束します。でも――」
 言うか迷った。だが、結局言うべきだと思えた。
「責任という意味では、坂本選手に事故の某かも責任があったとは思えないの」
「受け取り方ですね」
「そうね。でも、きっと数少ない人間の一人よね?坂本選手のそうした気持ちを聞かされた、私は」
 雄介は頷いて見せた。
「その立場から言うけれど、それは整理した方がいいのかも知れない。きっと梶原翔太君も、坂本選手の本来の走りを見たがっていると思う」
――また私は余計なことを!
 だが、雄介は微笑んだ。
「そんな風に僕自身が思える日は来るのかな…。現役を引退しても思えないかも。なにしろ、アイツだって走っていたかったんです。記事になったり、タレントさんと話すとか――そんなのが目標で走ってたわけじゃ無いけど、でもそれら全部だってアイツのものだったんだ…って、まだ思うんですよ。だから、僕は今も、僕の前ってアイツの居場所で、僕はどのレースで勝っても、記録を作っても、アイツの背中を見てるんですよ」
 沙都子に笑顔を見せるようにはなった。だが、そう言い終えた雄介は、やはり寂しげだった。小さく頭を下げ、雄介は人混みに消えていった。

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