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風の王 その⑨ その時が来たら

『日本陸上競技選手権大会』――白地に鮮烈な印象の赤文字で書かれたポスターを、沙都子は見上げた。
「六月十五日日曜日――か」
 大会規模が大きい場合は、普段の編成に援軍が加わる。慌ただしいことは想像出来ても、一人が出来ることには限りがある。
「忙しそうだけど、個人に限界があるからこそのチーム」
「そうだが」
「ヒッ!」
 不意の声に、胸の前で手を合わせ、飛び退いた。
「その限界点を多少超えて貰わにゃならんケースがある」
 どこで買ったのか、アメリカンドッグを頬張りながら守山が言った。
「びっくりしたなもう!現れるなら現れるって前もって言って下さいよ!それでなくてもでっかいんだから!」
「あ?言えったってお前」
 守山は辺りを見回した。
「ここ、みんなが通る廊下だぞ?それに俺のデカさが何の問題なんだよ?もう慣れたろうが?」
「守山さん、廊下で誰かとすれ違う時に絶対迷惑掛けてますよ…」
「ほっとけ…。それより、お前を探してたんだよ」
「へ?」
「嫁入り前の女が『へ?』はやめろ…」
「そういうの今は差別的発言です」
「同僚からの思いやりだ…」
「そーですか。で?なんの用です?」
「お前に話があるってさ」
 心当たりの無い話だった。今の編集部に来て、知り合った人物など知れた数だった。沙都子は眉をひそめ、守山を見上げた。
「誰ですか?」
「聞いて驚け、百メートル現日本記録保持者」
 仰天した。「どこに?いまですか?来てるの?え?マジですか?あ、ほぼスッピンだった!お化粧どうしよう!ちょ…先輩が邪魔で向こう側が見えない…」
「あほか?ここに来るわけ無いだろうが?人の話は最後まで聞け!記録保持者のコーチからだ。俺の携帯に場所と時間の連絡があったから――おい…何してんだ?」
 守山のポケットに手を突っ込んで沙都子は掻き回した。
「ば…!このやろう…!くすぐってえだろうが!やめ…やめろって!」
「携帯出しなさい!はやく!」
 くすぐったさに悶える守山と、抱きつくようにしてポケットを探る沙都子の様子を遠巻きに見ていた上司は、溜め息を残して部屋に戻っていった。

 頌徳大学グラウンドは、意外なほど閑散としていた。
「ここって陸上がほとんど独占的に使ってるって聞いたけど、その陸上関係者がいないとこんなものなのね?なんだか勿体ない気も――」
 見回しながら入って行くと、約束の場所に体格のいい男が見えた。
「臨在さんだ…」
 臨在は、トラック横のベンチに腰を下ろし、誰も居ないグラウンドを見つめている。背後から近づいてみた。
「来たかね?」
 振り返らずに言った。
「若林です。あの…」
「まあ掛けなさい」
 三人掛けのベンチ両端に離れて腰を下ろした。
「忙しかったんだろうが、済まなかったね」
「いえ!何かお話があるとか?何を置いても参りました」
 臨在は笑い、沙都子を見た。
「梶原さんから電話があってね」
「余計なことをしてしまったでしょうか」
 臨在は小さな溜息を漏らした。
「いや。苦情めいたことを言いたいわけじゃ無いんだ。ただ、この事に触れるなら、正確に知っておいて欲しい――と、そう思ったものでね」
「正確に?ですか?」
「そう、繊細な話だからね」
 要点が分からない。そもそも沙都子には、臨在と梶原翔太の接点が掴めていなかった。
「私が雄介のコーチになったのは、頌徳大陸上部に彼が入ってからだ」
「はい、そう伺っています」
「だが、知り合ったのはもう少し前のことなんだよ」
 そうであろう――と予想はしていた。
「初めて彼を見たのは、生後三日目――」
「え?」
 イタズラな笑みを見せ、臨在は頷いた。
「そう。生後三日目の、病院だった。彼はね――」
 眼差しを遠くに向けた。青い空に白い雲が立ち上っている。トラックを見下ろすように、何処までも高い空の下で、臨在は驚くべき話を沙都子にして聞かせた。
「私の孫だ」

どんな話があるのか――と、期待と不安が綯い交ぜで訪れた沙都子だったが、さすがにこの告白――雄介は自分の孫だ――という話には驚かされた。
「驚きましたが、でも、そう聞かされれば『なるほど』と思える点はあります」
 沙都子から口を切った。
「私、うちの守山から『坂本君のコーチになるまで、臨在さんがどうしていたか、よく分からない』というような話を聞かされた時、不思議に思ったんです。駆け出しの私が言うことで無いのは承知で申しますが、臨在さんは凄いコーチなのだと思います。ご自身も嘗ての日本記録保持者であり、勇退されたあとは大学で運動に関する理論を学び直され、後進の育成を現役後の人生の目標にされた――と伺いました。現状で、臨在コーチは坂本雄介という不世出の日本記録保持者の指導をされています。それが突然そうなった――とはどうしても思えないんです。各地で指導などをされていたらしい――という話も守山から聞いて知っております。その時に接点があったのかと考えていました。頌徳で出逢われる以前から坂本君となにがしかの接点があったのでは――と。でもまさか血縁関係だったとは…」
 一気に話す沙都子を、感心したように眺めていた臨在は、その視線をまた空に向けた。
「うん、血縁だというのは、自分の口から今初めて他人に話した。これまで言ったことは無いから、驚かれるのも無理は無い。出会いだが、最初に言ったようにはじめから――生まれた時から知っているわけだ。私も若さから、過去に色々とあってね。最初の結婚は、うまく行かなかったんだ。月並みだが、価値観とでも言うのか…。離婚そのものは互いに理解し合った上での、謂わば円満なものだった。その後の彼女の生活は何より優先で支えると約束もしたし、自分なりに実行していたと思っている。その彼女が再婚したのは、風の便りで聞かされたよ。何せ彼女も陸上競技者だったので、そんなツテでね」
「坂本選手は、じゃあ――」
「離婚した時、彼女はお腹に子供を宿していた。娘だった」
「それが坂本選手の?」
 臨在は俯き、呟くように言った。
「母親だ」
 沈黙のあと、臨在は普段見せる事の無い、力ない笑みを横顔に見せた。
「私は最低なんだ。話し合いで離婚は円満だった――だの、価値観だの…。それはそうかも知れないが、女性が自分の力だけで子供を育てていくなど、支援があろうとも楽なはずも無い。それを――。どこかで、ちゃんとやったんだ。彼女もドライに生きているんだ――なんて勝手にね…」
 沙都子は黙って下を見ていた。
「生まれたことも、元気よく育っていることも、折々に彼女は教えてくれたよ。どんな気持ちでメールをくれていたのか、当時の私には分からなかったが。それでもそれを読むのは楽しみだった。それが、二十年だ。二十年経った頃、突然その娘からメールが来たんだ。それまで一度も無かったんだが、アドレスは母親に聞いたと書いてあった。その中身は、『自分は素晴らしい人と出会い、結婚することになりました。式には呼べませんが、もしも子供が生まれる時には、絶対に見て下さい』と書かれていたよ。驚いて――そして嬉しかった」
 小さな咳払いをひとつして、臨在は笑った。
「私のそんな話はまあどうでもいいんだが、これも雄介の事に関係あるので、先ずは聴かせたような次第だ。娘は、約束してくれていたとおり、出産の日程を教えて寄越したよ。その日、指定されていた時間に駆けつけてみると、ガラスの向こうにあの子がいたんだ。雄介さ。それが生後三日目だったんだ。小さかったよ。どこか妻の面影があったな。娘は私に似ていると笑っていたが…」
 トラックを見つめる臨在の目には、過去の様子が蘇って見えているのだろう――と、沙都子は思った。
「私は既に再婚をしていたが、今の家内は本当にありがたいことに、過去のそうしたことに理解を示してくれて、ね。時々あるそうしたメールのやり取りなんかも、大事にして上げてね――と言ってくれる奴なんだ」
 臨在が何を自分に伝えようとしているのか、沙都子は掴み取ろうとしていた。
「小学校に上がった――授業参観を見てきた――初めてのプール授業だった――そんな話を、教えてくれたよ。その頃には、彼女の母親よりも頻繁にメールをくれていたんだ。そんなひとつに、運動会の報せがあった。彼女は私に提案したんだ。何処からか観ているだけなら構わないんじゃないか――とね。言葉に甘えたよ。勿論、本当に物陰から眺めるだけで帰ろうと思って出掛けたんだ。いや、驚いたね」
 笑みがこぼれた。
「私が同じ年頃だった頃よりも、あの子は足が速かったんだ。スタートした途端に他の子を置き去りにしてしまって、呆気にとられたのを覚えている。それを、メールで伝えると、娘は『いつかコーチして上げて、それで日本記録や世界記録をとらせて上げて』と――」
 頬が、微かに痙攣するのが見えた。沙都子は視線を他所に移した。その横で臨済は話し続けた。
「君が言うとおり、私は後進を育成しようと考え、大学で学び直した。それまでの経験を評価され、有難いことにそれなりのポジションを与えられたので、先ずは少年期の指導に当たったんだ。それこそ全国各地で教えたよ。その中の一つが雄介の居る小学校だった。ようやく近くに行けたわけだ。無論、彼は私のことを知らなかった。余計な話で混乱させたく無かったのが理由だ。それでも楽しかったよ。孫に教えている事も勿論だが、教えることを砂が水を吸うように覚えるんだから。ほんの数時間だったが、その間にも彼はそれ以前より速くなっていた。これは伸びる!と、思ったね。だが――」
 臨在の頬の笑みが消え、表情も翳った。
「定期的にくれていた記録会なんかの情報が、プツンと途絶えたんだ。何があったんだろう?と心配で、娘に訊くと、走るのを辞めている――と返ってきたよ。そう、あの、梶原翔太君の事故の後さ」
 何度も沈黙を挟みながら、臨在は語り続けた。
「雄介よりも速い子――と聞かされた。それが雄介との試合後に、事故で亡くなったと聞かされ、驚いたよ。まだ幼かったのに――」
 梶原千紗の力ないが、芯から生まれる笑みを沙都子は思い出した。時間が癒やすものと、時間だけでは癒やされないものがあることは沙都子にも分かる。千紗は、その両方を抱いて生きていた。悲しみすらも大切な自分の宝物――と言わんばかりの優しい笑みだった。
「当時私も多忙にしていて、雄介に会うとか、細やかなことは出来ずにいたんだ。だから、事故の数ヶ月後に、また走り出したと聞いた時は嬉しかった。立ち直ってくれた――そう思ってね。だが実際には、本当の立ち直りじゃ無かったんだ。それはあの子の走りを競技会で見た時に感じたよ。これは違う――!あの子本来の走りじゃ無い――!」
 沙都子の脳裏に、佐和結実の顔が浮かんだ。恐らくは雄介に恋心を抱く結実の、心からの心配顔が、臨在に重なった。
「それで私は、レース後の雄介に声を掛けたんだ。あの子、私を覚えていてね、それで、私の『大学で指導したい』という申し出を、まあ時間は掛かったが受け入れてくれて、それが頌徳だったわけさ」
「その時点でも彼はすでに絶対王者と――」
「ああ、呼ばれていた。あの子の走りは、他の追随を許さなかったから、そう呼ばれるのも当たり前だったろう。だが、私もそうだが、あの子自身にもその意識は無かった。絶対王者…それは、なんだろう?誰と比べての話だろう?自分よりも遅い子と?そこにある意味はなんだ?あの子は苦しんでいたよ。なぜって――」
 名伯楽・臨在の目は、再び空を見ていた。
「何故って、あの子は知っているんだ。自分よりも速い奴を。確かにあの子の前を走っていた、背中を、声を、笑顔を、知っていて、それを無くしたんだ。生まれて初めて自分を負かした相手を、追って追って、それでも届かずに、そのまま――」
――ああ…、そうだ。雄介君のあの視線は、彼の前を見つめていた。ゴールを先頭で駆け抜けながら、笑顔一つ見せない絶対王者は、彼より早くゴールした梶原君の背中を見ていたんだ。
「目標を持つことは大事な事でね。自分の成績が自分――と言うより、何かを求める者には、目標を追うことそのものが存在意義な面がある。それは確かに、ライバルという目標を失うなんて出来事は普通にあることだ。だが、早すぎたんだ、あの子には、その経験が」
 沙都子は合点した。そこまでの想いを抱えて、絶対王者は走ってきたのだ――と。
「梶原君のお母さんに会ったのは、雄介が日本記録を作った後のことだ。躊躇いは勿論あったが、あんな雄介を、原因を知りながら放置は出来なかった。その私をお母さんは温かく迎えて下さったよ。よくいらっしゃいました――あの子も嬉しいはずです――そう、言ってね」
 真相は、辛いものだった。何処かで〈していたつもり〉の覚悟も、及ばなかった。
 臨在は、沙都子を見た。
「伝えられることがあれば伝えよう――そう思って梶原さんにお会いした。それは双方に対してね。雄介にも、私から伝えられることが何かあるのでは無いか――そう考えたからだ。この事、記事にするしないは、そちらの判断だ。それも覚悟で話させて貰ったよ」
「何故それを私なんかに?そういうお話なら、私なんかよりも守山の方が気心も知れてらっしゃるでしょうに」
 臨在に笑顔が蘇った。
「そうなんだが、なんだろうな、君に話してみたかったんだよ。打算も何も無く、真実はなんだろう――と見つめてきた君にね。聞いた話では、君は雄介に突撃取材を試みたそうだが、アイツが珍しく苦笑いを見せたんだ。どんな話だったかまでは知らない。だが、そんな君なら分かってくれるんじゃないか――と思ったのさ」
「分かる?」
「うん」
 臨在は、トラックを見た。
「陸上競技には、自分のレーンを替えられない種目が幾つかある。百も勿論それだ。あの子は、替えられないレーンで藻掻いている。何秒の記録を生もうと、あのこの前を先に走る子の背中に、追いつけず、苦しんでいるんだ。そんな子もいるという事実を分かった上で取材して貰えたら、ということかな」
「他社が聞いたら怒りますよ」
 冗談めかして言うと、臨在は笑わずに言った。
「いつか、あの子に〈その時〉が訪れたら、記事にして構わない。それまで内密に頼めれば、それでいい」
 立ち上がり、臨在はトラックに出た。
「キミはスポーツ経験者では無いようだが、たまには走ってみてはどうかね?そうすれば競技者の気持ちにも少し近づけると思うぞ?」
 それには苦笑で応え、沙都子は臨済に尋ねた。
「臨在さんと自分の関係を、いまの坂本選手はご存じなんですか?」
 臨在は軽くストレッチをしながら首を振った。
「教えてはいない。娘も伝えてはいないだろう。だから恐らく知らないはずだ」
 そう言い残し、臨在は走り去った。
 残された沙都子は臨在を見下ろす青空を見た。
「人が走っているんだ。心のある、感情のある、想いや、悲しみや、そんなもの全部抱えたままで」
 呟きが出たが、臨在の残した言葉が気に掛かった。
「その時が来たら――の、その時って、一体いつの事なんだろう…?」

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