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風の王 その⑫ 孤独な勝者

選手が位置につく。見ている自分の心音も聞こえるような気のする緊張の時間だ。
 そこからの記憶が、後になって沙都子の中に奇妙なものとして残った。
 選手たちの動きは異様にスローだ。周囲の他社、観客の声、それは風景画のように停止している。その中で自分だけが普段通りに動けている。気付けば雄介も普段の通りに動いているが、普段からユッタリとしているので違和感は無い。
 スターティングブロックに足を置き、いつものように前方を見つめている。その雄介の、声が聞こえた気がした。
「僕が見ているものは、いつもこの風景です」
 沙都子は、雄介の目を通して同じ景色を見ている気がした。
「真っ直ぐ伸びたレーンは、並んだ選手たち一人一人に与えられてて、勝つんだ!という気持ちは誰も似たようなものなんです。でも、この中で僕じゃなく、誰かが一位になるとしても、それよりも早く梶原はゴールするんですよ。小学校五年の時から、それはいまも」
 沙都子は居並ぶ強敵を見回した。そこに、梶原翔太の顔は勿論無い。だが感じた。他の誰にも見えないレーン立ち、鳥肌が出るほどの存在感を放っている。祐介と沙都子にしか感じられないその存在は、自分のレーンの先を見つめている。
「梶原君は居るんだね」
 雄介の手がスタートライン上に置かれた。その視線はラインを見つめている。絶対王者と呼ばれてはいても、居並ぶ者たちも当然強敵だ。時に互いが恐怖ですらある。それでも乗り越えようと燃える心を抱える。そんな中にあって、それでも雄介は孤独に見えた。
「君は、そうやっていつも誰とも戦わず、梶原君の背中だけを追ってきたんだね」
 雄介は腰を上げた。
 一体どれ程の長い時だろうか――と、沙都子が思う程に、一瞬は終わりない流れを見せている。セットしてから号砲が鳴るまで、それは〈見つめろ〉と迫ってきた。見つめないなら、何も分からないぞ――と。
 号砲の残響が消えないうちに、雄介は既に数メートルも飛び出している。沙都子に他の選手は見えない。雄介だけが空気を裂き、二本の白線で挟まれたレーンを行く。沙都子は自分もレーンを行くような気分で、雄介を見守った。
「君の前に見えるよ」
 雄介の加速は増す。加速されるほど、祐介の直前を行く少年の姿は鮮明さを増す。
「本当に速いんだね」
 少年は風になり、ゴールを目指した。
 雄介の心臓が破裂しそうに鼓動を打つのも感じられる。その雄介の声が聞こえた。
「…待てよ梶原…。待てよ……」
 少年は振り返ることなく走り続けている。その二人の姿を、沙都子は眼前で捉えた。
 少年は笑顔だった。雄介もまた、泣きそうな顔で笑っていた。
 二人は沙都子の前を過ぎていく。誰にも追いつけない風が、永遠にも思えるほど長い数秒を駆け抜ける。沙都子はモニターも見ずにシャッターを押し続けた。
 二人の後ろ姿を見送り、止めていた息をユックリと吐き出すと、それまで雄介のものと思っていた心臓の高鳴りが実は自分のものだったと気づいた。沙都子もまた、走りきった後のように疲労していた。
 大歓声が戻り、五十メートル先で雄介が流すのが見えた。その表情は、沙都子からは見えないが、想像は出来た。
「きっと、もう今は笑ってない」
 レースは終わった。翔太の影も消えた。
「坂本君は、ずっとこうして――」
 記録掲示板に数字が灯ると、大歓声が湧き上がった。それは、大会記録を塗り替える自己最高タイ記録だった。

 大会は終わり、沙都子たちも撤収作業に追われた。
 傍で守山がケーブルを巻き取りながら沙都子に言った。
「どう感じた」
 訊ねると言うよりも、それは独り言に近いものだった。
「孤独」
 沙都子の答えもまた、独り言のような響きだった。
「それが分かるなら、ようやく半人前だな」
「今までは何だったんですか?」
「ゼロ人前」
「おい…」
 笑いは無い。空しさが、沙都子の胸に去来した。
「先輩は知ってたんでしょ?」
 守山は答える代わりに、動きを止めた。
「臨在さんと坂本選手の関係とか、いろいろ――」
「二人の間柄については、直接聞いてない。ただ、調べてくうちに、まあ、それとなくな」
 調べた――と言うならば、当然梶原翔太の存在も掴んでいたはずだ。
「知ってて――」
「いいか、若林」
 守山が振り返り、沙都子を見下ろした。
「聞いて知るのも知るうちには入る。けどな、それは〈分かる〉とは別物だ。ググったら何でも知ることが出来るが、分かるとは違う。分かるには――」
 後の言葉を呑み込み、巻き取ったケーブルをバッグに押し込んだ。
――分かりますよ、今は。分かるには、自分の中に情報と向き合う剥き身の自分が必須です。痛みを痛みと知る経験も必須です。脳が知るのと、心で分かる…の距離は、大きいですね、センパイ…。
 その上で記者には、書くという仕事がある。喜ぶ者傷つく者、多くの無関心無関係な者達――そこに向け、ビジネスで書く。
――それなら、自分はいつも悩んでいたい。
 沙都子は大会記事の中に、なんとか数行でも自分の言葉を入れたかった。
――半人前には、無理な話ね…。
 勝利者インタビューに応える雄介の、無表情な顔を思い出し、沙都子は溜め息を零した。


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