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リュブリャナ市街とポストイナ鍾乳洞

11月12日(日)
7:00起床。ビュッフ形式の朝食。出発が遅めなので朝食後はスーツケースをフロントに預けてホテル近辺を30分ほど一人で散歩することにした。Y子は練馬のご夫婦に付き添って近くのスーパーに行くという。通訳としてお手伝いをするらしい。世話好きのY子はどこに行っても人に尽くす。学生時代から変わらない。私にはそこまでできない。偉いなと思う。

外に出ると朝の冷たい空気が頬を刺激する。肌寒いが心地よさも感じる。大通りから歩き始める。広い通りの両側にはビルがゆったりと立ち並んでいる。郵便局や書店、電気店などの看板も見える。窓一面にアーティストの写真が貼られたビルがあった。コンサートホール(Kino Siska)らしい。音楽のほか映画や演劇、展覧会などが行われるようだ。大通りは旧市街に通じている。旧市街までは歩いてもそれほどかからないことが後でわかった。

コンサートホール

道を一筋入るとそこはアパート群だった。高齢の夫婦がゆっくり散歩しているのが目に入った。他に人の姿は見えない。黄色い落ち葉が地面を埋め尽くしている。歩くとサクサク音がして何とも心地よい。落ち葉を何枚か拾って旅のノートに挟んだ。アパート群を抜けると一戸建ての家が立ち並ぶ地区に入った。アパート群とは雰囲気がちょっと違う。居住する人達の階層が違うのだろうか。こちらも静かでやはり人の気配を感じない。

アパート群

そろそろホテルに戻ろうと思ったとき一瞬道が分からなくなった。こんなことはめったにないのだが突然頭が白くなったようだった。周囲をきょろきょろと見回した。方角は何となく検討がつくのだが道が複数あってどの道を行けば良いのかがわからない。そこに一人の老婦人が通りかかった。英語で尋ねてみた。とても上品な女性だった。道を聞かれていることはわかったようだが英語は話せないらしい。スロベニア語らしきことばで答えてくれたが、私はスロヴべニア語がわからない。でも何となく想像がついた。彼女が指さした道を進むと無事にホテルに戻ることができた。

ホテルに戻ったのは出発15分前だった。みんな集合し始めている。預けておいた荷物を受け取りにフロントに行くとちょうどY子も戻ってきた。Y子はスーツケースを受け取るや否やその場で全開し買ってきた品を詰め始めた。通訳として行ったのだが自分もいろいろ買ったらしい。「見るとほしくなっちゃうのよね」と言って笑っている。

バスは9時半に出発した。30分ほどでリュブリャナの旧市街に到着。スロベニアはユリアンアルプス東南端の緩やかな丘陵地帯に町が点在する国だ。ここでスロベニアについてちょっとお勉強。古代ローマ時代にこの地域には「エモナ」と呼ばれる町が建設されていたらしいが5世紀ごろフン族が侵入し町は破壊された、その後6世紀にスロベニア人が定住を始めたが、8世紀半ばにフランク王国の支配下に入る。その後952年にオットー1世により神聖ローマ帝国に組み込まれる。14世紀から第一次世界大戦まではハプスブルク家の支配地となる。1981年から1945年まではセルビア人、クロアチア人、スロベニア人が構成する統一国家の一部だった。第二次世界大戦後にユーゴスラビア社会主義連邦を構成する6つの共和国の一つとなり、その後1991年にスロベニア共和国として独立した。現在(2017年)の人口は約200万人で、30万人近くが首都のリュブリャナに居住している。90%がスロベニア人でローマカトリックを信仰している。公用語はスロベニア語。

旧市街はリュブリャニツァ川の両岸に広がっている。バロック様式の建物が多く、落ち着いた雰囲気の町だ。町の中を1時間半ほど散策した。添乗員の案内で旧市街をひととおり歩いたあとリュブリャニツァ川にかかる「龍の橋」で解散となった。その後は自由行動なのでY子と二人で散策する。まず川に沿って歩いた。川岸の柳の木が風に揺れている。レストランやカフェが立ち並んでいるが日曜の朝なのでまだ閉まっている店が多い。川には「龍の橋」のほか、「肉屋の橋」「三本橋」など個性的な名前の橋が架かっている。「肉屋の橋」には恋人たちがかけたという鍵が欄干にたくさんぶら下がっていた。橋の反対側にリュブリャナ大聖堂が見え、さらに向こうの丘の上にリュブリャナ城が見える。城までは150段の階段を上るが、ケーブルカーも設置されている。今回は時間がないので城には行かず旧市街の町歩きを楽しんだ。

「三本橋」は町のシンボルのような存在、1842年にそれまでの木の橋を取り壊し、建築家のヨジェ・ブレチニックが完成させた。三本の橋が放射状にならび、中央の橋が車道、両側の二本が歩道になっている。橋のたもとはプレシェーレン広場。19世紀の国民的詩人フランツ・プレシェーレンの銅像が立っている。「陽が登ると、戦いはこの世から消え、誰もが自由な同胞となる」というスロベニア国歌の歌詞はプレシェーレンの詩からとったという。国歌は1991年の独立後に作られたが、プレシェーレンの言葉は独立を果たした人々の琴線に強く触れたのだろう。私にはスロベニア国歌を聞いた記憶はないが、どこかで耳にしているのかもしれない。帰ったら調べてみようと思う。プレシェーレン広場に面してピンクの外壁のフランシスコ教会が建っている。中に入ると礼拝が行われており、観光客がたくさんいた。


三本橋
フランツ・プレシェーレンの銅像
フランシスコ教会

三本橋を渡りリュブリャニツァ川に沿った道を進む。外に置かれたレストランのテーブルと椅子にはひとつひとつに布が掛けてある。よく見ると動物の毛皮だった。この時期になると外で食事をするのは寒い。そのため座布団やひざ掛け用に毛皮が置いてあるのだという。寒い国ならではの風景だ。

外の椅子にはひざ掛け用の毛皮が用意されている

川の向こうにリュブリャナ大学が見えた。リュブリャナ大学はスロベニア最古の大学で国内最大規模を誇っている。学生は4万人を数え、市の人口の1割以上を占めている。17世紀に神学と哲学の学問分野が確立したのを受け、ナポレオン統制下の1810年に大学が設立された。その後、オーストリア帝国の時代に解体されたが、1919年にリュブリャナ大学として再び設置された。当時の学部は法学、哲学、神学、薬学、科学技術の5つだったが、現在は23の学部と3つの芸術アカデミーから構成されている。首都にある大学はリュブリャナ大学だけで、10万冊以上の蔵書を有する図書館は国立図書館としての機能も備えているそうだ。

町を歩きながら、ふとトランプ大統領(当時)の妻メラニア夫人のことが思い浮かんだ。彼女はスロベニアの出身だ。移民として海外に出て成功したスロベニア人の中ではトップクラスだろうが、スロベニアにいた頃はどんな生活をしていたのだろう。本人は母国への未練がほとんどないように伝えられているが、実際はどうなのだろう。また、スロベニアの人たちはアメリカやメラニア夫人のことをどう見ているのだろう。いろいろ知りたくなった。                          

川と反対側の一本中の道に入ってみた。みやげ物屋がたくさん並んでいる。かわいらしいハンドメイドの店を見つけた。店名はVezeninaという。スロベニア語で「刺繍」を意味するらしいが発音はわからない。エプロンやバッグ、子供服など売られているものすべてにきれいな刺繍が施されている。店の中を覗きこむと若い女性が「10分でお好みの刺繍を入れますよ」と英語で声をかけてきた。Y子がトートバッグを購入した。「私はプラスチックバッグじゃない(I’m not a plastic bag)」と刺繍されている。ほのぼのとしたユーモアを感じた。バッグの裏側に自分の名前を刺繍してもらってY子は満足そうだった。値段も15ユーロとお手ごろだ。

ハンドメイドの店 Vezenina

自由時間が終わりに近づいてきた。集合場所のプレシェーレン広場に向かってY子と喋りながら歩いている時だった。肩にかけたショルダーバッグに突然重みを感じた。三本橋を渡る少し手前あたりだ。脇を見ると中年の女性が見えた。異様に接近している。手に持ったマフラーが私のバッグに触れている。とっさに思った。「スリだ!」私は彼女を睨みつけ距離を取った。女性は何食わぬ顔ですっと私から離れるとそのまま足早に立ち去っていった。私はバッグを確認した。閉めていたはずのファスナーが全開している。すぐに中を調べた。幸い無くなったものはなかった。財布もパスポートも無事だった。ほっとすると同時にぞっとした。そして、用心を怠っていたことを反省した。バッグは常に前に抱えるというのは海外旅行の鉄則だ。旅行の慣れが油断を生み出したのだろう。緊張感を持たなければと改めて思った。

あとでツアーの人たちと話して同じ女性に狙われた人が数名いたことを知った。フランシスコ教会の中と道路とで2回も狙われたという人がいた。彼女も私もそれほどお金を持っているようには見えないのだが。スリが狙うのは大金を持っていそうな旅行者というよりも、隙のある人間なのかもしれない。スリがそのあたりを見分ける力は半端ではない。

11時5分リュブリャナを出発しポストイナに向かった。12時にポストイナに到着し、町の中心部にあるレストランで昼食をとった。小さな町なので通りに人の姿はあまり見えない。前菜のパスタに続いてメインのターキー料理。ビール(Union)の小瓶を(2ユーロ)を飲んだ。

ポストイナの小さな町

食事のあとレストラン裏に教会が見えたので行ってみた。ステファン聖教会という小さくて古い教会だった。ローマカトリックの教会として1777年に建てられ、1793年に教区教会となったそうだ。中に入ると誰もいなくて静まり返っている。説教壇に立つと不思議な感覚におそわれた。自分がスロベニアの小さな教会にいることが不思議だった。

ステファン聖教会
ステファン聖教会の外観と内部

教会の後、インフォーメーションに立ち寄った。小さな町だがインフォーメーションは一応ある。地元の土産物も売られていたが種類は少ない。それほど珍しいものにも見えなった。出発時刻までぶらぶらしながら時間をつぶす。

13時過ぎバスは出発し、10分ほどでポストイナ鍾乳洞に到着した。見学は予約制になっている。私たちの予約は15時からなので時間はたくさんある。待ち時間を使って土産物屋を見てわることにした。奇妙な動物のぬいぐるみがたくさん売られている。ホライモリだとあとでわかった。民族衣装の人形とガラスのキャンドル立てを買った。そのあとしばらく川でマガモを眺めた。

15時鍾乳洞ツアー出発。入り口で写真を撮られた。洞窟で行方不明になった場合に備えての写真かと思ったら、何のことはない記念写真の販売用だと後でわかる。有無を言わせず写真を撮るなんて! トロッコ列車に10分ほどに乗り見学ツアーのスタート地点まで行く。中は驚くほど広い。そしてすごく寒い。ヨーロッパ最大級の鍾乳洞で、10万年ほど前から石灰岩が少しずつ削られたと言われている。オーディオガイドを聞きながら個人で洞窟内を1時間ほど歩いて見学した。奇妙の形の鍾乳石がたくさんあり、それぞれに名前が付けられている。「ブリリアント」「スパゲッティ」「カーテン」「ジャイアント」などなるほどと思えるネーミングだ。鍾乳石は1センチを形作るのに何十年もかかるという。気の遠くなるような自然の作業だ。16時過ぎに「コンサートホール」と呼ばれる最後の場所に到着した。広くて洞窟内の音響効果のよさも相まって実際にコンサートも行われるらしい。さぞかし感動的なコンサートになるのだろう。ホールの手前にホライモリの水槽があった。真っ白いドラゴンのような生きもので、目がない。何も食べなくても一年以上生きられるという。昔流行ったウーパールーパーのようだった。「コンサートホール」には土産物屋があり、多くの人が買い物をしていた。ここでもホライモリのグッズがたくさん売られていた。


ポストイナ鍾乳洞の入口
巨大な白い鍾乳石「ブリリアント」
「コンサートホール」


帰路のトロッコ列車に乗った。ツアー参加者全員は乗り切れず、Y子はもう一台の列車に乗った。出口には入場時にとられた写真が展示してあった。1枚5ユーロ。買う人もいたがよく撮れていなかったのでY子も私も買わなかった。買った人の中には、写真がそのまま残るのも嫌だし、捨てられるのも嫌だからという人がいたがデータは残る。データはどうなるのか。肖像権はどうなっているのか。疑問が残った。

16時半、ポストイナに別れを告げバスはクロアチアに向けて出発した。まず向かうのはオパティアという町で、今夜宿泊するホテルがある。クロアチアとの国境に着くとパスポートチェックが行われた。スロベニア側でバスを降り、窓口で出国審査をしたあとクロアチア側に歩いていく。クロアチア側でバスに乗ると今度はでクロアチアの女性警察官がバスに乗り込んできて一人一人のパスポートをチェックした。かなり厳しい。審査のあとは検問所に併設された両替所でユーロからクローネに両替した。クロアチアの通貨はクローネだ。それほど使わないと思ったので1万円分だけ(525クローネ)両替した。

国境の検問所

18時過ぎオパティアに到着。予定していたホテルでボイラー故障が発生したため、急遽ブリストルホテルという別のホテルに泊まることになった。古くて重厚な感じのホテルだ。部屋もバスルームも広い。19時から夕食が始まった。メニューはクスクス、ターキー、マッシュポテト。1.6 クーナでビールを注文した。

夜は大雨になった。雷が鳴って嵐のようだった。明け方には警報機が鳴った。警報音がしばらく続いたが、外で鳴っているように思えたので、気にしなかった。救急車か何かかもしれない。火災でもなさそうだ。ホテルからのメッセージもないのでそのまま再び眠りについた。

翌朝、ツアーの人と話していると、すぐに逃げ出せるよう着替えた人もいたようだった。たしかにそうだ。のんびりしていたことをちょっと反省した。


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