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列車乗車中の親不知で能登半島地震に遭遇。


はじめに


2024年1月1日16時10分に石川県穴水町を震央とする令和6年能登半島地震が発生いたしました。被害に遭われた皆様には、心よりお見舞いを申し上げます。
同時に私も地震の発生当時、富山県と新潟県の県境の親不知で、列車で移動中に今回の地震に遭遇しました。地元の方々や鉄道会社の尽力により、無事に東京に帰る事ができました。ここでは、地震発生から東京に帰るまでの何が起こったのかを共有いたします。

時系列

1月1日

  • 16時07分 一つ手前の青海駅を定刻通り出発

  • 16時10分 令和6年能登半島地震発生 親不知駅手前で緊急停車

  • 16時17分 津波警報発令に従い、列車から高台に避難開始

  • 17時56分 周辺の避難所(公民館)に移動開始

  • 18時05分 糸魚川市歌外羽地区公民館に到着

  • 20時   付近の住民の避難指示解除  

  • 21時           鉄道の終日運休と2日午前中の運転見合わせ決定。大津波警報が出ている為、代行バスもすぐに出せず、1日の夜は公民館で過ごす事が決定  

  • 1月2日 9時 鉄道会社手配のバスで公民館から糸魚川駅移動

  • 15時35分 糸魚川駅から1番列車で東京に向け出発

  • 18時30分 東京駅到着


直江津駅に停車中の急行3号

急行3号


えちごトキめき鉄道日本海ひすいラインは旧北陸本線から新潟県側の直江津〜市振の59.3キロが移管された路線で、土日を中心に観光急行列車が走っております。急行3号直江津発市振行きはこの日、2本目の観光列車で、糸魚川までの帰省で利用される方もおり、乗車率は7割程度。途中、有間川、能生に運転停車し、糸魚川には15時51分の到着です。
この糸魚川で大半の乗客が降りられて、残すは鉄道愛好家をメインに20人程乗せて糸魚川を出発。
ここから終点市振までは各駅停車として運転します。ただ終点の市振では、富山方面の列車に接続しておらず、ほとんどの乗客がフリーパスで市振からまた直江津方面に折り返す事を予定していたようでした。

地震に遭遇



16時07分に青海駅を定刻通りに出発。トンネルを抜けて、親不知駅に向けて減速中に、乗客達の携帯から一斉にアラート(緊急地震速報)が鳴りまた。一体何が起きたんだと考えてるうちに、しばらくして、急行列車は親不知駅のホームに差し掛かる手前で緊急停車しました。停車後に大きな揺れを感じました。親不知駅は北陸自動車道を隔て日本海という立地で、東日本大震災の教訓から津波が来ないかと不安になりました。

親不知駅緊急停車中


16時17分、車掌さんからアナウンスで、「津波が来るの可能性があるので高台に避難します。列車の前方(運転席)から脱出するので、車内前方に集まるように。」の事でした。
乗客達は順次に先頭からはしごを使い脱出しましたが、なかには荷物が大きく身動きがとれない方、白杖を持った方もあり、列車のはしごを降りるのはなかなか大変でした。乗客みんなで避難のサポートをしてなんとか列車から全員脱出しました。

列車から緊急脱出
列車はホームにかかる直前で緊急停車

高台に避難開始


その後は親不知駅からすぐの高台に向かいましたが、そこまでの道はまわりに廃屋が多く、既に人が使わなくなってから久しく、周りを枝が遮り、上に行けば行くほど悪路そのものでした。この場所から、来た道を振り返ると日本海を一望できた為、乗務員さんや乗客の皆さんは、しきりに海を見つめていました。波はとても高く、時折、親不知駅の敷地にも波打ちしている状況でした。

高台に避難


公民館に避難開始

いくつか小さい余震に見舞われましたが、心配していた津波は親不知に来る危険は少なくなったようでした。
しばらくすると、日没であたりは真っ暗になりました。しかも廃道のような道で灯りもなく、足元も段差があるような場所だったので、ずっとこの場所に居ても大丈夫なのか、体も冷えてきたのでトイレの心配もあると思っていた所、乗務員さんが鉄道会社と連絡をとり、ここから5分の公民館に避難する事が決まりました。時刻は18時頃です。

公民館に向かう途中で飲み物の確保
後ろの北陸自動車道も真っ暗で車が通っておらず、不気味な感じがしました。


高台を降りて、親不知駅前を通り、公民館(糸魚川市歌外羽地区公民館)に向かいました。公民館には自販機など飲み物を購入できる場所はない為、何人かは親不知駅前の自販機で飲み物を購入し、公民館に向かいました。
公民館では既に地元の住民の方が避難していました。避難スペースには大型のTVが置かれて、NHKの地震速報が流れていました。そこで被災情報を知り、しばらく列車は動きそうにないとわかりました。また乗務員さんからも、「大津波警報が出ているので、まだ線路点検できる状況ではなく、どちらかと言うとバスでどこか大きな場所に乗客の皆様を送り届けるのが現実的です。ただまわりの道路も閉鎖されているので。。。」との事で、長期戦を予想しました。特に急行列車が通ってきた名立付近の国道は土砂崩れがあり、いかにこの地震が大規模のものなのかを目の当たりにしました。
ストーブがたかれ、電気やトイレもあり、携帯の電波も届いたので、とりあえず一安心です。
避難所の公民館は20時をもって、先に避難していた地元住民の方の避難が解除され、公民館には急行3号の乗客と乗務員さんだけを残す形となりました。
21時過ぎに、炊き出しで非常用のお米と豚汁が提供されました。
炊き出しを食べ終えた後に、乗務員さんから「今日はバスの手配は出来ないので、私達は明日の朝までここに居る事になりますと。」と正式にアナウンスがありました。
乗客達は、どこまで行けば、新幹線に乗って帰れるか、そこまでどうやっていくのか討論し始めました。その時は一番近くても、長野、越後湯沢まで行かないと新幹線が動いていませんでした。タクシーは呼べば来るのか?など様々な意見がありました。
また糸魚川市の行政の方でも私達をどうにか救助できないか検討しているようでした。
23時頃に消灯で、真っ暗になりました。ストーブはあるにせよ、毛布が全員分なく、寒い思いで一夜を過ごしたかと思います。
特に乗務員さん(運転士さん、車掌さん)のお2人は横になる事もなく、会社との連絡や乗客への説明でほとんど休めている余裕はなかったのではないでしょうか。

糸魚川への避難



朝7時に再び電気が明るくなり、炊き出しの塩おむすびが提供されました。すると、しばらくして、乗務員さんから「8時40分頃に救助のバスが糸魚川を出発しました。この公民館には間もなく到着します。」とアナウンスがありました。私達が休んでいる間にも、鉄道会社はバスを手配し、乗客達の救助を第一に考えてくれたようです。またバス会社様も津波の危険が完全に消えた訳でもない中で、海沿いの道を迎えに来てくれて、本当に色々な方の支援があったんだなぁと実感しました。

親不知から糸魚川に向けての救助のバス

9時に公民館を出発し、国道8号を糸魚川に向けて発車しました。ここで今まで避難誘導いただいた乗務員さんの2人はお別れ。天気は晴れて日本海は穏やかに見えました。国道では対向車とほとんどすれ違わず、20分ほどで糸魚川駅に到着しました。

糸魚川市内を走行中


引き続き、北陸新幹線は運転見合わせとの事。駅のセブンイレブンは真っ暗で「再開未定」の張り紙がありましたが、しばらくすると灯りがつき、お店がオープンしました。きっと、お店も誰か困っている人が居るのではと思い、オープンされたんだと思います。
北陸新幹線の東京方面は15時30分過ぎに運転再開され、途中、上越妙高付近で緊急停車したものの何とか無事に東京駅に到着しました。

今回は鉄道会社のえちごトキめき鉄道をはじめ、糸魚川市、バス会社、歌外羽地区消防団の皆様にはとてもお世話になりました。
歌外内地区の皆様には、公民館の開放、炊き出しや毛布の提供、また元旦にも関わらず地域の方が一丸となり、ご支援いただいた事は忘れません。
炊き出しに提供いただいた非常食は本来、地域住民の方が使うものであって、地元に縁もゆかりもない私達、乗客が使わせて頂く事に複雑な気持ちになりましたが、いつかどんな形であれお返しできればと思います。
またえちごトキめき鉄道様も正月返上で、鉄道の復旧に尽力された他、早期に高台への避難指示、救助のバス手配などされた事で乗客達は安心する事ができました。
本当にありがとうございました。


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