私小説「はるかな峠へ続く道」 第一章

「本日の、○○県の新種疫病感染者は、確認がありませんでした」

野比大輔(のびだいすけ)は、何か複雑な気持ちで、ニュース画面を眺めていた。
野比は、何とも言えない憤りややるせなさで、心底から震えていた。

野比の脳内には、THE YELLOW MONKEYの名曲「JAM」のサビが、繰り返しリピートされている。

(外国で飛行機が墜ちました ニュースキャスターは 嬉しそうに
乗客に 日本人は いませんでした いませんでした いませんでした・・) 1996年のリリース当時、世間を震撼とさせたあの歌詞がグルグルしていた。 この時期、野比は深い悩みの沼にいた。
時は西暦2020年の事である。


この頃野比は、東北地方の地方都市にいた。

この都市の年頭、野比の人生は、新たな岐路を迎えようとしていた。

野比の従兄弟に当たる野比飛水(のびひすい)という人物は、保育の企業の経営をしており、一部の利用者が成人に差し掛かるこの時期、「就労の場」「地域での居場所」を模索していた。その会社の利用者は、発達・知的にハンデを抱えた人が多く、家族にとっては、何より利用者自身にとって「地域で当たり前に生活する」ために、重大な局面を迎える時期であった。多くのこの会社の従業員や、家族、当事者にとって、皆が「地域と社会の中で当たり前に生きていくための」タイムリミットが刻一刻と迫る時期であり、様々な準備の時期であった。そんな折、野比飛水の脳裏には、大輔のことが浮かんだのである。

この世の中、まだまだハンデを持った人たちへの扱いは厳しく、野比飛水の会社の従業員たちも、いやきっと利用者たち自身も、街行く人の矢を射抜くような好奇の目を感じることもあった。また、「福祉」の現場で働いていた男が「現実」に直面する中で、己の中で狂気の渦にはまり、大量にハンデのある人を殺めるという事件も起きていた。無論、「入所施設」での出来事である。

そして野比大輔は、発達に特性があり、若い頃から社会の残酷な部分に否応なしに触れていた。

最初に就職した会社でのこと・・それは、野比にとって、「人生の遠回り、汚点」でしかなかった。その会社で野比は追い詰められ、命を絶つことも本気で考えたほどであった。以来、住む場所も何度か変わり、職も何度となく変わった。

そして野比には元々、「生まれ故郷」というものが存在しなかった。父親は転勤のある仕事をしていた人間であった。野比は中学に入る段階で私立に入り、その中学在学期間に「自分が、どこの土地に行っても、地元の人間ではない」ということを自覚した。いや、正確には、「自覚させられた」のである。  例えば正月休み明け恒例の「お年玉の額競争」である。野比の親類縁者は北国や関東に住むものがほとんどで、当時野比が住んでいた静岡には皆無であった。ある同級生に言われたことで、当時、野比は傷つき、本気で、本籍地に根付いた生き方を選ばなかった自分の父親を、その時は怨んだと後年、野比は述懐している。
「お前、親戚とかいないの?夜逃げしてきたから?」
野比はその私立学校の高等部に進学したが、総じて当時の地方の私立高校も地元育ちの生徒ばかりであった。あるヤンキーの生徒に「お前、小学校の時に、転校してきたって‥転勤で静岡に来たの?」かなりヤンキーで野比をいじくってきた生徒だったが、その「世の中に転勤族がいるという概念」を知っている奴と中学以降で初めてまともにまともに会話出来た・・その瞬間は今でもはっきりと覚えている。

 そして致命的に野比は、他の生徒や関わる人たちの多くとは違う空気感を持っていた。それをからかい、つまりは「虐める」人間も多く、次第に野比は、あまり他者に心を開かない人物になっていった。その後遺症か、今でも完全に心を許している相手がこの世の中にいるのかは、分からない・・野比は、そう考えているという。

蛇足すると、この静岡で過ごした時代は、野比の長年続くコンプレックスの起点になるようなことも多くあったが、数少ない友人たちとバカな遊びに耽ったり、高校の部活が楽しかった時期があったりして、決して「ひたすら暗黒な時代」ではなかった。

そして、静岡という土地に地縁があるからこそ、野比は後年、自分が大変な光栄に浴していることに気付くことになる。

 ここまでが野比の半生の概要であるが、多くの悲しみとやるせなさを抱え、今は本籍地の北国で悶々と福祉就労に従事する彼に、まだ人生リスタートの機会があると思っていたのが野比飛水であった。多くの好奇の目と、差別にさらされ、「果たして、自分たちがいなくなったら、この子はどうなってしまうのか」という不安の中で戦う家族。野比のように「言語」で表現できる人間には心の内がなかなか通じ合えないが、内心は不安が大きいであろう自閉症や知的障害の当事者たち・・幸いにも、野比は、若い頃から、多くのハンデを持った人たちと関わる機会があった。例えば野比飛水の会社ではそうしたニーズのある利用者はいなかったが、車いすの押し方も心得ていたし、何より、そのようなハンデのある人達と過ごすことを「それ自体が大変なこと、苦痛なこと」とは、考えていないようだった。(ただ、その後の経験により、人間にはどうしても受け入れられないタイプのハンデの人たちがいることを知ることにもなる) 

そこに野比飛水は目をつけた。
実際、世の中は「目に見ええるハンデの人たちに好奇の目しか向けない人、
それが大半」と言ってよい。 「目に見えない」ハンデの人たちにしても、
「知的障害のヤツと働く?絶対にいやだ」
野比大輔は、精神を病んでから、当然、精神疾患の知人も増えたわけだが、
何も歩み寄ろうとせず、障害者雇用に進む段階で「これ」を嫌がる人たちには、多少のクエスチョンマークを抱いていた。野比大輔自身、言ってしまえば、「定型発達ではない」故に、理不尽な扱いを受けてきた。惨めな思いをしたこともあった。コンプレックスは相当なものであった。

 辛酸をなめてきた野比大輔に対し、野比飛水はこの2020年の春、
「任せたいことがある」という話をするべく呼び出した。

野比大輔は、北国に存在する独特な「ジモトだけを大好きじゃないと白眼視される」ような、圧倒的な雰囲気に辟易していたし、何より、車が動かせない野比大輔にとって、北国にいては、「何者にもなれない」ことは、明々白々であった。まるで、まだ盗みを働いていないのに地の底に突き落とされたものに、クモの糸が差しのべられたような状況であった。

野比大輔は、「やります」と快諾した。

まだ、どうなるか分からなかった。

きっと、北国にいれば心に安寧を保ったまま過ごせる時間も、野比飛水の提案通り首都圏に行けば時間の流れの速さに翻弄されたり、嫌なこと、困難にも直面することは、容易に想像できていた。実際、野比飛水は空手一筋の人間で、言うこと、行動が体育会系そのもので、実際、近くにいると疲れると感じる面は、繊細な野比大輔は感じていた。

そして、今まで関わった中では、明るいタイプが多かったダウン症などのハンデの人たちと違い、今度は自閉症の人にも多く関わるという。

「大丈夫だろうか?」という想いは、少し感じていた。

しかし、それを見透かしたかのように、野比飛水は言った。

「まず、やってみよう」

これで野比大輔は吹っ切れた。

とにかく、人生の新しい挑戦、リスタート、それをするんだ、と心の底で意気込んだ。

その日、建物から出た時に見た景色、青い湘南の海、いずれも未だに忘れていない。

野比大輔の人生にようやく陽の光が差し込んだ、そんな想いだった。

帰りの電車の中で、これから展開する人生に、期待と不安に胸が高まり、
鼓動が聞こえんばかりであった。

しかし、この時、不気味な疫病は、野比大輔だけでなく、世界に対し、
牙をむき始めていたのである・・。

第二章へ続く

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