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「宣教学」③

        「介入ー存在と宣言」

 特に第二次世界大戦後に、教会の宣教を考える上で、宣教のより適切で理解可能な概念の枠組み(パラダイム)が求められるようになった。教会が新たな文化対応を行う中で、宣教のあり方が、介入や宣言から、対話や存在が選ばれるようになった。
 新しい概念の枠組み、すなわち変革のパラダイムが現れた。このパラダイムでは、福音の「文化的適用」が宣教の戦略的目標となる。
 教会の目標は、イエスが宣言した神の支配に従って、個々人が変わることであり、それを理解した人々によって教会は形成される。そのような教会から派遣された宣教師は触媒的な働きをし、対話による変革をもたらす。


「触媒としての働き」

 有効な変化をもたらすには、独自のビジョン、適切な考え方、有効な戦略が保持されなければならない。そこでは、「コイノミア」(自己犠牲の愛「アガペー」に立脚した共同体に対する新約聖書のビジョン)という考え方が働き手や宗教的組織に共有されなければならない。
 ここでは私の主張する基本的な前提や概念について説明したい。
 初めに、触媒的という意味を説明したい。触媒的働きという比喩を用いているが、文字通り理解すると、化学のように触媒となる物質が、元の物質から変化を受けないということは、社会的な宣教現場では起こりえないことである。それはあくまで、社会的変化に対するあるべきキリストの行動(他を妨害せずに何らかの可能性をもたらす働き)の特徴を強調するためである。

「対話的協力関係」

 次に、対話について考えてみる。対話は、社会的触媒の方法である。行動の前に、関係があり、双方が心を開き、互いに尊敬しあう関係である。
 あるべき対話には必要なことがある。
① 対話するものは、明確な自己理解を持たなければならない。
② 双方が相手に対し、真に自らを開示し、傾聴しなければならない。
③ 対話するものは、素直かつ知的に、自分自身の経験から語らなければならない。

「パルーシアとしての存在」

 存在という概念を考えてみる。新約聖書で「パルーシア」は、到来、来臨、存在と翻訳される。神学用語として、キリストの初臨(最小のバルーシア)や再臨(二回目のバルーシア)と用いる。
 つまり、存在の概念は、初臨におけるキリストの受肉の深く関わることであり、同時に歴その終わりにおける神の目的の成就にも関わる。
 宣教的存在の目標は、人間性に対する神の目的への向かう運動である。それは常識を超えた結果をもたらそうとする、一種の触媒的介入である。
 存在という考え方に対して、私たちの社会的―文化的特徴不可避的に影響してしまう。自己理解のあり方が「宣教」あるいは「計画」における存在を建て上げる。どのように自己認識しようが、ステレオタイプは避けられない。キリスト者として存在する宣教師は自己を知り、文化に対して敏感でなければならない。
 宣教方法において、祭司的性格と伝道的性格は対立するが、初期の再洗礼派たちは、バランスを取りながらイエスが弟子に行った宣言を強調しただけでなく、現実生活の中で顕わされたイエスの霊の証を強調した。
 つまり、キリストの名によって行動し、キリストの代理者として働き、神の存在と力を示すことで、働きの力はイエスの力によるもので、私たちの力でないことを明らかにした。

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